第8章 タンゴの奇跡  つづき

10.
北米は猥褻か否かで裁判
 北米へはブエノスアイレスからの直輸入ではなく、フランスで洗練されたパリ式アルゼンチン・タンゴが、ニューヨーク経由で全米に広がっていった。この頃、北米人がますますタンゴに関心を持つようになった事件として、クリーブランド市における、猥褻か否かが争われた裁判事件がある。この事件は、オハイオ州クリーブランド市で、ヘンダーソンと言うダンス教師が、同市の警察署長に”いかがわしい不道徳的な踊りを市民に教えた”と言う理由で起訴されたものである。この”いかがわしい踊り”と言うのがタンゴのことであった。猥褻罪になるかどうかと言うことで裁判が開かれたが、甲論乙駮でなかなか結論がでない。とうとうヘンダーソン氏が法廷でヨーロッパ直輸入のアルゼンチン・タンゴを踊って見せ、裁判官一同が投票で判決を決めることになった。結果は裁判長はじめ全員が 「これは異国情緒のあふれる魅惑的な踊りであり、決して猥褻な踊りではない。立派な芸術である」との投票をして無罪の宣告をした。これを聞いた警察署長はたただちに立ち上がり、「裁判長、今ヘンダーソン氏が踊ったタンゴは、裁判官諸氏に見せるために作られたタンゴで、本当のタンゴはもっと猥褻なものです。私はヘンダーソン氏より公正な人に、もう一度、裁判官全員の前でタンゴを踊ってもらい、猥褻か否かを決定されることを望みます。」と抗議した。裁判長は熟慮の後、判決を1日延期した。
 翌日、告示を見た約百人ものタンゴ・フアンガ法廷に押しかけ、次から次と踊りをして見せた。傍聴人は時ならぬ法廷でのタンゴの競演に大喜びで、やんやの拍手をした。遂に、裁判長までが拍手を送る仕儀となっては、「タンゴの勝利」である。「タンゴは立派な踊りである」との判決が下り、ヘンダーソン氏は名誉を回復した。時の大統領タフト(第27代 1909 〜1913)も、「タンゴは私が見たいろいろな踊りの中で、最も素晴らしいものの一つだ」と言って賞賛した。
 ニューヨークの社交界でも、ジャズが流行する前にタンゴが大いに受け入れられたため、バーレイ・ニューヨーク大司教は、教皇のタンゴ禁止令を、神に仕える者の立場から仕方なく世間に伝えたが、一般市民はほとんどの人がこの禁止令を無視ししてしまった。

11. 第一次大戦中に塹壕の中でも
 第一次大戦が起こり、ドイツ、フランス国境で激戦が展開されたが、その戦いたけなわの塹壕戦中、負傷兵交換などでひと時の休戦協定が結ばれることがあった。このような時にフランス軍の陣地からは、ありあわせの缶詰の空き缶などで拍子をとりながら唄う、タンゴの曲がドイツ軍陣地に流れ、武骨なドイツ軍兵士達の目を丸くさせた。という話が残っている。
 こうしたヨーロッパでの「タンゴの奇蹟」を聞いたアルゼンチン人は、ヨーロッパ化されたタンゴを逆輸入し、さらにこれへボカの住人達が”ボカ気質”を注入して再び全世界へ「アルゼンチン・タンゴ」として紹介した。この歴史を人間にたとえれば、アフリカの血を受け、モンテビデオで生まれ、アルゼンチンで育ったタンゴが、パリ、ローマ、ウイーン、ベルリンなどに遊学して成人し、故郷のブエノスアイレスに帰り、ボカ気質を叩き込まれて本当の大人になり、アルゼンチン・タンゴと呼ばれるようになった。ということができるのではなかろうか。  おわり

あとがき
 タンゴの話は第一次大戦後にもいろいろな逸話やエピソードがある。勿論今までに書いた話も絶対に正確なものとは言い難い。と言うのは、文中にも書いたが、タンゴを育てた黒人の多くは無学で、自分の名前も満足に書けないような人が多かったので、正式な記録というものが殆どないからである。そのため、タンゴの誕生にしても色々な説がある。しかし”タンゴ”がアフリカの黒人の言葉であり、彼らの間から発生したことには、どの説も一致している。ただ、モンテビデオが元祖か、ボカが元祖か?という話になると諸説がある。ここで述べた記述は、最も信用できると言われる、ビセンテ・ロシイ(モンテビデオ生まれ)著の「コサス・デ・ネグロス」というドキュメントを中心に、ホセ・A・ウイルデ著の「ブエノスアイレス70年前」やハドソン著の「遥かなる国、遠い昔」などから、黒人の話を抜き出して綴ったものである。彼等黒人の子孫達は、とてつもない巨大な遺産を、アルゼンチンのために残してくれたものである。

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