【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み=】 No.22 第8部 ≪興味と暇のある人のために≫ 外国旅行でも”何とかパック”とか”何々ツアー”のように、添乗員の持つ旗を目印に、それについて行く旅行は味気がないと言う人が最近は多くなったと聞く。さりとて、一人旅だと南米のように英語が殆ど通じない国々に来ては、スペイン語ができないとレストランへ入ってもコーヒー一つ注文できないこともある。ツアーだとこうゆう心配がない代りに、その国の表面だけした見られないと言う結果になってしまう。短時日の滞在では街の裏側とか露地の奥などを見ることは不可能だろうが、表面だけを見てその国を知ったような錯覚に陥る人が居るのも困る。陽気で親切云々というアルゼンチン人の性質にしてもこれと反対の面が色々ある。しかしその点は住んでみて一つ一つ実際に体験してみなければ分からない。そこで、ちょっと目先を変えて、古い都市美を持つブエノス・アイレスの側面を少しでも知ろうと思う人のために、時間があれば是非試して頂きたい市内漫遊を紹介する。 ラ・プラタ川沿いにあった昔のビアホールの建物を改修した「電気通信博物館」、かっては藤田嗣司画伯の絵も飾ってあった「国立美術館」、サン・マルティン広場前の「武器博物館」、「大統領府地下博物館」、レサーマ広場にある「歴史博物館」、アルゼンチンが生んだ世界的画家、キンケーラ・マルティンの絵が一堂に集められている「ボカ美術館」、さらに足を伸ばして70キロほど西へ行けば、巡礼のメッカ「ルハン大聖堂」と周囲の博物館群、南へ行けば学園都市でブエノス・アイレス州の州都ラ・プラタ市の「自然科学博物館」(1985年夏にの博物館所蔵の恐竜の骨が日本で公開された)などを回って、アルゼンチンの昔日の栄華と、その文化的遺産を偲ぶのも良い思い出になる。 ![]() 全く目的を持たずにブエノス・アイレスの下町を見たければ、それはもうミクロ・セントロを出れば、いずこも同じ雰囲気である。自動車のスピードを20キロくらいに落とし、一方通行を街路標識の矢印に従ってジグザグに走り回ればよい。石煉瓦を敷き詰めた道がまだあちこちに残っており、犬の糞がもぐらが出た後のように盛り上がっている歩道に面して、壁が灰色にくすんだ古い家の戸口には、何を考えているのか老人が黙って腰掛けている光景がそこここで見られる。何処へ流れるのか市役所でも分からないと言う下水溝があちこちで詰まって、天気の良い日でも随所で水が溢れ、この水にタイヤを濡らしながら廃車寸前のような古い自動車が埃を被って放置されている。 こちらの角のフィアンブレリーヤ(パン、肉、ワイン、飲み物、菓子、煙草、などの他日用品などを売る店)の薄暗い奥には、肥って髭を生やした小父さんがサッカーの放送に夢中になっているし、反対側のコンフィテリーヤ(喫茶店)の隅では。、一人の老婆が一口のパンを5分も掛けてもぐもぐ食べている。その隣では若い二人連れが、手振りも大袈裟に延々とチャムージョ(お喋り)に熱中している。何時の間にか車は、聞き覚えのある広い通りに(アベニーダ)に出るから、後は、番地の若い方へ向かって走ればひとりでにセントロへ戻れるはずである。 【あとがき】 個人主義の発達したヨーロッパ系の民族は自己主張が強く、自分を出来るだけ大きく、そして偉く見せようとする。。ある日系の会社で日本語が出来る秘書を募集したところ、「おはよう」「今日は」「さようなら」などだけしか喋れないのに、堂々と「私は日本語ができます」といって応募した人がいたという。反対に日本人だったら英検の1級を持っていても、他人には「とても私など英語はうまくありません」と謙遜するであろう。 同じ理屈で、品物を売る場合でも、傷物を最高の品だと言って売りつけようとする。自分からこれは傷物だから安くするなどと言ったら誰も買ってくれない。しかし、売り手としては、普通の商売のやり方で売ろうとしただけのことで、一向に悪いことをしたとは思っていない。買い手が自分で品物を吟味しなくてはならないのである。これがラテン・アメリカ人なのだ。日本人のモラルに照らすと”騙す、誤魔化す”と言うことになる。しかし、こんな話は自分の恥じをさらすことになるし、その国の悪口になるし、聞いてる方にとっても面白くもなんともない。 そこで私は、面白くもない内面的な体験よりも、観光旅行に役に立つような表面的な見聞を紹介しようと思った。 私は約4年の駐在期間中にアルゼンチン国産のフォード・ファルコン3600ccの大きな車で50000キロ走った。この物語は、この間に運転席から見たことを整理したものである。オリジナル原稿は1990年頃の執筆である。アルゼンチンなどのラテン・アメリカ諸国は失われた80年代と言われるように1980年台は経済的に最悪の時代であった、その後多くの国が90年代に入って急速に回復し、街の様子も様変わりしてきた。そこで、それらの変化について、1998年に3か月余り滞在したときの様子や、ブエノス・アイレスの友人達からの情報、さらには、送られてきたり、旅行した人から提供された写真などを使い、常に現状に近い内容を保つよう心がけている。日本の真裏に当るアルゼンチン社会の姿が、ちょっぴりでもお分かりいただければ有り難いと思う。 最後までご覧頂き有難うございました。 (2007.6記) |