その7 |
カフェ・ハポネスの黄金時代は、1930年代から1940年代半ばまでであった。カフェが廃れたのは、1946年(昭和21年)に登場したペロン政権が、ポプリズム(大衆迎合政策)、労働組合重視政策をとったため、 労働者の地位が上がり、法外な労働条件や賃金を要求するようになったので、商売としてなりたたなくなり、オーナーが経営を放棄するようになったためである。前年の1945年10月にエビータと正式に結婚したペロンは、 彼女の強力な後押しで徹底的な労働者重視政策を取った。 アルゼンチンのカフェのモッソ(ボーイ)は月給は殆どなく、客が置いていくチップが全額モッソの収入であった。しかしこれが馬鹿にならない額である。日本で1930年頃の教員の給料は精々30円、校長でもやっと 50円程度であったが、ブエノス・アイレスの繁盛していたカフェ店のモッソは、チップだけで月150ペソは稼いでいた。円とドルの関係は、当時1ドルは約4ペソ、日本円も1ドル4円強で、対ドルの為替相場はほぼ同じだったので、円とペソの関係もペソの方が若干高い程度で、ほぼ同額であった。カフェや食料品店の従業員や労働組合は経営者に対して、他の企業と同様の給料を支払う事、8時間労働を必ず守ること、 チップは客の自由だが従来通りモッソが貰うこと、さらにはコップ、皿洗いの給料を決める事。モッソは店の大きさに応じて、A,B,などのランクをつけて最低給料を決める事など、それまで考えられなかったような 細かく、労働者有利な条件を提示し、それを強引に決めさせてしまった。 そのため、こんな条件では利益が上がらない、廃業してクリーニング屋でもやった方がいいと、大きなカフェ店は閉店する店が続出した。特に日本人の場合、労働法規を盾に行なう話し合いは苦手な人が多かったためもある。 アルゼンチン人経営の店の中には、会社組織にして出来の良いモッソを重役にしたり、給料を倍額払って共同経営者にすることなどで、生き延びた店も多くあったということである。 三浦氏の合資会社では4人の経営者が毎年交代で日本へ保養方々帰国してきた。大きなカフェでは、コップ洗いとか、皿洗いとかまでが全部一世の日本人の若者で、20〜30人も働いていた店もあった。ロサリオ市や サンタ・フェ市のカフェでは日本人同士のカフェ店の競争が深刻になり、遂に日本人会がそのために二つに割れた年もあったと言う。 大統領夫人として最大の権力を握ったエビータも病気には勝てず、1952年(昭和27年)7月26日、子宮癌のため死去した。享年33。エビータの亡骸は1957年4月、イタリアに運ばれ、1974年の11月に漸くブエノス・アイレスに戻ってきた。夫ペロンが庶民の墓地チャカリータに眠っているのに、エビータの棺は、上流社会の人々の霊が眠るレコレータ墓地のドゥアルテ家のパンテオン(何体もの棺を格納できるように地下室もある霊廟)の正面に安置されている。広いレコレータ墓地の正面入口を入り、少し真っ直ぐに行ってから左に入る細い通路の中ほどにある。フアン・ドゥアルテ氏が、子供達を認知しておいたお陰で、エビータは立派なドゥアルテ家のパンテオンに入ることができた。日本的に言う庶子を5人も生ませたドゥアルテは、本心からエビータの母親を愛していたのであろう。路地幅が2米ほどしかないので、パンテオンの写真を撮ろうとしても、広角レンズじゃないと正面からは撮れない。チャカリータ墓地に立っているカルロス・ガルデルの右手に煙草が絶えないのと同じように、エビータのパンテオンの扉には一年中花が絶えない。 お わ り 【写真説明: 右上、1945年結婚したとき。右下、ドゥアルテ家のパンテオンの扉、いつも花が絶えない。 左、1974年11月、18年振りに祖国に帰ったエビータの棺、 左側はペロンの棺。】 【参考文献】 「アルゼンチン同胞80年史」 賀集九平著 六興出版(1981) 「在亜商工会議所創立35年記念誌」 在亜日本商工会議所 (1985) 「エビータ、写真が語るその生涯」 青木日出夫訳 あすなろ書房 (1997) 「エビータ」 牛島信明訳 新潮社 (1996) 「GUIA VISUAL DE Benos Aires 2000」 ブエノス・アイレス市観光局(2000) 「 ウイキペディア: フアン・ペロン」 ≪執筆後記≫ この物語りは、ブエノス・アイレス在住の友人(故人)から提供された資料を元に、2008年に書き上げたものに、2013年になり別の資料が発見されたので、それを加えて改めて書き直したものである。日本人移住者社会とカフェ店の発展の歴史を明らかにし、そのカフェ店の一つとエビータが深く関わっていたことから 親日家になり、敗戦後の日本に大量の食料等を援助してくれたというお話である。秘話としたのは、エビータが特に少女時代の出来事を話したがらず、また当時を知る日本人も、彼女が日本人経営のカフェ店で 働いていた事は知らなかった、ということから秘話としたものである。このことについて日本人が書いたものでは、1963年(昭和38年)10月8日、三一書房から発行された山本満喜子著「ラテン音楽の旅」の中に、 僅かに書かれているのが見られる。そのような訳で資料が少なく、まして写真なども殆ど残っていないのが残念である。 (2013.11) |
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