No.6 2月29日(火) 〈グアテマラ滞在〉 9時、ロビーにクラーク・ツアーのガイドが来る。毎日ガイドが変わる。今日はグアテマラ市内観光である。我々の他に外人の夫婦と中年の女性一人の合計5人。 外人夫婦は英語で喋る。市内は第一地区から第14地区まで別れているとかで、最初に第14地区の高級住宅地から回ることになった。この地域の入り口にはものものしいガードマンが警備している。それもその筈で、 中には各国大使館があるからだ。静かで大きな木の並木道が続き閑静な住宅地と言った感じである。逆順に第一地区の先日行った中央市場方面にゆっくり移動する。メイン通りに米国からたった5ドルで買ったと言う 鉄骨のエッフェル塔まがいの塔が建っている。中央広場地下の駐車場に入り政庁の建物内部を見学。中庭では、たまたま、1996年12月29日のゲリラとの停戦協定が調印されたことを記念する式典が行われていた 。毎月29日に行われるそうだが、2月は4年に1度しか行なわれない。式は文化大臣がメッセ−ジを読み上げ、犠牲者の霊を慰めるために中庭に建てられた、腕の形をした銅像に白薔薇を 捧げて終わる。ゲリラとの内戦では主に地方の一般住民達28万3000人もが死んだと聞いた。テレビが中継している。その後、中庭にいた人達にジュース類やクッキーなどが振る舞われる。私も妻も図々しくもお相伴にあずかってしまった。 政庁内部の広間にはグアテマラの道路原標になる柱がある。それから広場の向こう側にある教会に入り、アンティグアの教会が地震で壊れた時に移したと言う、沢山の宗教画を見る。宗教画はスペインでも飽きるほど見たが、無知文盲な人達にキリスト教の教えを理解させるために描かれたものだと言うのだが、黒色が基調の暗くて同じような構図の絵ばかりで、我々には面白くもなんともないものだ。芸術的な宮殿のような中央郵便局がある。そうかと思うと突然汚い住宅が現れる、スラム街を抜けホテルへ戻る。先日と今日でグアテマラ市内を一通り走ったが、ハカランダを初め美しい花が咲き乱れ、街全体はハバナよりもずっと活気がある。店も沢山あり品物も豊富である。これも自由経済と社会主義経済の差なのだろうか。だからこそ乞食もいた。 ホテルで昼食後、今度は我々2人だけで、国立考古学博物館を見学する。マヤ文化のすべてを紹介しており、陳列品も立派である。遺跡が示すようにマヤ文化の程度の高さと素晴らしさに改めて感心した。ホテルへ3時半に戻り、近くのブティックや民芸品ギャラリ−を歩く。駐在の日本人の奥さんに会ったが、日本へは帰りたくないと言っていた。治安も良く気候も良く想像以上に素敵な国のようで、その気持ちが何となく分かるような気がした。 ギャラリーで人形などを買う。夕食は中華レストラン”ライライ”にした。えびラ−メンと豚肉ラ−メン、それにすぶたを注文したが、ラ−メンのえびも豚も山盛りで量に圧倒されるが味は薄く、持参の醤油をかけても どうにもならない。こんなまずい味でもグアテマラ人には通用するのだろうか。酢豚はまあまあだった。それでも主人の中国人が挨拶に来て愛敬を振り撒いてくれた。ホテルの売店で、気にしていた玲子の土産に 縫いぐるみと、私は小さな絵皿を買う。これで、グアテマラの日程はとどこうりなく終わった。 3月1日(水) 〈グアテマラ〜メキシコ〉 早朝6時15分にクラーク・ツアーが迎えに来た。外はひんやりする。空港までは10分とかからない。メヒカーナ航空のカウンターには長い列ができており、一人一人の処理が遅い。行列の人達に税関申告書 配られる。ここでは出国時に提出するようだ。行列に見えるように看板が立っていて 『麻薬所持は懲役15〜20年、罰金5万〜100万ケツアル(6,700ドル〜13万ドル)になる』 と書いてある。ここでも パスポートの出国スタンプはない。もっとも入国時にもないのだから当然か。結局、カンクンの出国からグアテマラの入出国は全然記録が残らないことになった。免税店で久保さんに例のロン・サカパ・センテナリオ を1本買う。これは出発ロビ−で受け取る。1時間50分でメキシコに着く。カンクンで入国カ−ドを余分に取っておき事前に記入していたので真っ先に入国手続きが済んだ。 ここで面白いハプニングがあった 。私と妻がパスポートを、どこかで取り違えていたまま私が先に手続きをした。その時、私が係官に話しかけたので、係官は顔写真を見ないで入国スタンプを押してしまった。すると後ろの窓口で妻の係官が 写真が違うのに気がつき妻に何か言っている。私が行って見て初めて取り違えが分かり、苦笑しながら、スタンプを押してくれた。日本人だから安心したのかどうか知らないが、厳格であるべきはずがいかにもメキシコ人らしいと言える。荷物検査は今日も幸い緑が付いた。3年前に会ったラウルが迎えに来ていた。出口は太平洋ヨーロッパ線、中南米カリブ海線、国内線と別れている。これは中南米カリブ海線の客は麻薬 持ち込みの恐れがあるので、取り締まりの関係上分けているのだそうだ。日本から来た時と違い車までかなり遠く、ややこしいのでラウルを呼んでおいて正解だった。 シェラトン・マリア・イサベルの今度の部屋は5階で見晴しは良い。それにしても 各空港でいちいち税金を取られたのにはちょっと合点がいかない。12時頃やっと落ち着いた。久保さんにロンを渡し、預けておいた荷物を引き取って、妻はまた金の鎖を2本かった。トランクを整理し荷物を作る。チチカス テナンゴで買った大きな袋2つをいっぱいにしてどうにか納まった。その後旅行社へ行きK氏に会い、JALのコンファームを頼み、空港での税金やら、パスポ−トにスタンプのない理由などを尋ねた。スタンプのないのは、キューバの場合は米国やエル・サルバドルへの入国の際問題が起きないようにとのキューバ側の配慮とか、グアテマラの場合は、メキシコを経由して米国に入るグアテマラ人の入国を阻止する ためとか(この理由はよく理解できない)。税金については明日のガイドの田中氏が詳しいので彼に航空券を見せて聞いて欲しいと言われた。 ホテルの隣のデパートで珍しい丸いブリキ・ケ−スに入ったボレロの CDを4枚買う。夜7時半にマリアッチ広場(正確にはガリバルディ広場と言う)へ行くためラウルが迎えに来た。まず本場のタコス屋へ連れて行ってもらう、タコス専門の”エル・カミネーロ”と言うその店はホテルのすぐ裏にあった。タコスだけの店で、トルティージャの”かわ”の枚数で値段が違う。3枚6枚9枚とあり、9枚で45ペソ(5ドル)だ。中身は豚、牛肉と玉ねぎを炒めてチ−ズを絡ませたものだが味は良い。妻は 持参の醤油をかけ、私はソースをかける。結構行けるので妻も数枚食べた。カンクンのタコスと言い、ここのものと言い、本場のタコスは美味しいものであることがよく分かった。 マリアッチ広場はまだ宵の口で、しかも今日は水曜なので人出が少ない。週末はもっと見物客が来るというが、ここの広場は泥棒や掏りが多くて危険だとの評判が立ってしまい観光客がぐっと減ったそうである。あちこちにマリアッチの楽士達がたむろしている。飲み物を飲みながら聞けるレストランを探し、”グアダラハラ”と言うレストランに入る。私はテキ−ラ、妻はジンフイズを注文。生演奏が始まった。 前回ホテルで聞いたクラスよりは下だそうだが、やはり目の前で聞くのは迫力が違う。マリアッチは男ばかりだが歌手の張りのある声はなかなか美声である。ツアー代金にはリクエストが3曲まできるようになっているので、シエリト・リンド、ジョローナ、ベサメ・ムーチョを要求。1曲5ドル相当なので、長く演奏してくれる。満足であった。リクエストではないが、”エン・ツ・ペロ(君の髪の中に)”と言うマリアッチがとても良かった。日本に帰ったらサム・モレーノに聞いてみようと思った。中年の歌手ルーベン・ロハスの美声に酔う。CDを買いサインをしてもらい一緒に写真を撮る。広場はやっと人出が盛んになって来たが、客引きが しつこい。ふりきるのが大変だった。 3月2日(木) 〈メキシコ滞在〉 ゆっくり起床。ガイドの田中さんと会う。ラウルが運転手である。車は彼の自前のクライスラーの大型バンだ。彼は、この車を3万ドルで36か月払いで買ったそうだ。 地元の旅行社に20年も勤める48歳の真面目で、少し日本語の分かる好人物である。3年前にも世話になったせいか、余計に親しみを感じる。でも、今日は田中さんと一緒のせいか一言も日本語は話さず、運転一本やりであった。メキシコ最後の漫遊に市内南部のソチミルコへ行く。前回も行きたかった場所である。『ここは、昔のアステカ王国の城のあった湖の一番端に当たる所で、もとは、きちんと区画されていたが、自然に崩れて川のようになったのだが、実際は流れ込む川も出ていく川もない、ただの大きな池のようなものだ』、とメキシコ在住20年と言うガイドの田中さんが説明してくれた。 水は淀んだような緑色だが水面には木の葉や水藻が浮かび流れはない。 岸辺には百姓や花作り農家が多い。週末はここも大変な賑いだそうだがウイークデイの今日は人出もまばら。原色のペンキで塗りたくった手漕きの船に乗る。騒音が出るのですべての船は手漕ぎだそうだ。ゆったりとしてなかな気分が良い。物売りの船やマリアッチのバンドを乗せたが船が行き交う。マリアッチが寄ってきたので1曲たのむ。5ドルだ。例のジョローナをたのむが出来ないので、昨夜覚えたばかりのエン・ツ・ペロをリクエスト。これは良かった。ソチミルコを後にして、市内南部の大学都市を見て、コヨアカンの高級住宅地の中を回る。昼食はファミリ−レストランへ入り今日もタコス。メニューが良く分からないので出てきたものを見て、妻は即座に”ジョ ノー”と言った。タコスにチョコレートみたいなものがかかっている。しょうがないので私が食べたが甘い味であまり美味しくない。タコスにもいろいろあるものである。田中ガイドが教えてくれてもよいのにと、ちょっぴり彼を恨んだ。広いチャプルテペック公園の中をぐるぐる回って、近代美術館を見学する。ちょうどディエゴ・リベラの作品ばかりを展示した特別展をやっていた。若い頃からの作品が多い。後年の壁画とは全然画風が違う。 時間が余って いるのでソカロを回る。前回は浮浪者みたいなのが大勢テントを張り、なんだか抗議をしていたが今日はタクシー運転手が沢山集まってこれも抗議集会を開いていた。近くにある、昔(約400年前)伊達政宗の家来の支倉常長の一行がヨーロッパへ行く途中の旅で泊まったというホテルを見た。当時のままだと言う。これで、市内観光も終わり。前回と合わせメキシコ市は一通り見たことになる。ホテルに戻り田中さんとコ−ヒ−を飲みながら、空港の税金のこととか、メキシコ事情などを聞く。久保さんに最後の挨拶に行ったら、妻に18金のブレスレットをお土産にくれた。これも買えば 100ドル以上はする代物である。お土産は上げるし、2回も結構買ってもらったし、余程良い客と見たのであろう。お爺さんとは日本での再開を約束した。そのままレストランで、チリ・ワインのコンチャ・イ・トロ を1本と、ピサ、サラダで夕食。妻が酔っ払ってしまった。 明朝は6時半にラウルが来ることになっている。これで自前で作った ”カリブ海の青さを愛でる小さな旅” はすべて無事終わった。疲れたが胸の中には毎日の違った印象と、 行く先々での、それぞれの思い出がびっしりと詰まっている。帰ってからの写真が楽しみである。夜8時半頃、メキシコ観光の清田氏から電話があり、利用の礼とJALのコンファ−ムのOK、それに カンクンやグアテマラの税金の二重取りの説明があった。夜中2時頃まで、どこかの部屋の音楽の音が煩かった。こうしてメキシコ最後の夜は更けていった。 3月3日(金) 〈メキシコよさようなら〉 朝6時半にラウル来る。空港では先に駐車場に車を入れカウンタ−まで運んでくれた。いい奴だった。最後に一緒に写真を撮った。免税点でエルメスのネクタイ、エルメスの小型のポ−チ、エルメスのスカ−フ、シャネルの香水などを買う。免税でも結構高い。JALはほぼ満員、 バンク−バ−で私のチョッキ、チコレート、鮭のジャーキーなど最後の買い物をする。9時間と5分ほとんど揺れのない快適な飛行の後、日付変更線を越え、往路でかぜいだ時差も儲けをきちんとお返しして夕方5時すこし前、雨の成田空港に無事着いた。メキシコ空港を離陸してからの所要時間時間、16時間17分。予想通り娘が来ていた。恒例になった寿司田にまず入り、江戸前の寿司をぱくつく。私は前回のメキシコからの帰途、バンクーバーを出てから間もなく通風の発作が起こり、成田まで苦労したものだったが、今回は自己管理がよくできたせいもあるし、持参した薬も適度に役だち、妻も私も身体には何の故障も起きず、本当に満足のできる旅であった。空港からタクシーで娘を乗せて帰る。この晩娘は泊まり、 翌日、チチカステナンゴで買ったマヤの手刺繍の派手な鞄に、お土産をどっさり積めて帰って行った。 《 カリブの小さな旅 完 》 (2007.3.13記) ≪写真説明、上から: @毎月29日は1996年12月29日の内戦終結平和記念日である。文化大臣主催の犠牲者の慰霊祭。 A宮殿と見紛う芸術的な中央郵便局の建物。 Bシェラトンホテルのすぐ裏手のタコス専門店「エル・カミネーロ」。 Cマリアッチ広場のマリアッチ・レストラン「グアダラハーラ」の見事なショー。 Dソチミルコの派手な観光ランチャ。 Eソッカロ広場には毎日何かしらのデモが来る。これはタクシーの集団。 F400年前、支倉常長一行が泊まったホテル、当時のままだと言われる。≫ |
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