ラテンアメリカ雑感 (7)
日本とペルーの過去の出来事 (つづき)
≪日本人移民の入植と、悲惨なペルー下りの話≫
19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(1879〜1884)の荒廃から徐々に立ち直り、工場設備は近代化され生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖価格の上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力不足が決定的になってきた。それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄したのである。
日本はと言うと、首都が東京に移って政治構造が激変し、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との通商関係が緊密になっていた。また一方では、軍国主義政策が推し進められ軍隊が増強された。工業の発展と軍隊の増強は、必然的に人口の増加をもたらす結果になった。1872年の人口3450万人が50年後の1920年には、約2倍近い5460万人に達した。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から溢れ出した余剰人口は、新しい労働の場を求めて都会に集まってきた。しかし、これらの労働者を救済するための施策は十分ではなく、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。行き場の無い人々は食うための手段を自分達で解決するしか方法がなかった。特に農村の二、三男達は相続できる土地がないため悲惨であった。
一方、中国人労働者を使えなくなったペルー政府は、代替策としてアンデス地方の原住民を徴収したが、それでも不足を解消できないため、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、森岡移民会社などに募集手数料として1人当り英貨10ポンドを払う条件で募集を委託した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるなどの、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民自身もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は(雨が降らないので)屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。これに対し農場主達は、武装ガードマンを派遣するなどで対抗した。中にはピストルで殺された移民もいた。しかし、農場主達は中国人との問題を経験していたので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられたので、1900年(明治33年)、日本政府の調査団がペルーを訪れ全員を送還しようとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束したため送還は実現しなかった。
それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデス山脈を越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスの峻険を超え、ボリビアやパラグアイ、さらにはアルゼンチンへまで逃げた人達がいる。しかし、厳しい山脈を抜けることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが移民の歴史で言われる「ペルー下り」、或いは「ペルー流れ」という哀史である。
しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資本を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。森岡移民会社が行った渡航は、1899年から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名となっている。このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では5万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎えた。
≪日系人排斥運動と国交断絶の話≫
フジモリ大統領の誕生を頂点に、ラテン・アメリカで最も親日国になったペルーと日本との歴史の中でも、1940年(昭和15年)5月13日に起きた排日暴動は、ペルーと日本との関係の中で、最も忌わしい出来事である。1930年代のペルーは、米国資本と結びついた「40家族」と呼ばれたヨーロッパ移民の白人達が支配していた。彼らは日本人の経済的進出を嫌い、例えば、日本人がスパイを組織したとか、秘密軍事基地を作ったとか、武器弾薬を陸揚げしたとか、まことしやかなデマを流して、日系人に嫌がらせをした。
ペルーには他にも外国の移民がいたのに、特に日系人が狙われたのは、日米関係の悪化に伴う米国の反日ムード作りが背景にあったためである。また、ペルー社会には、日系人がペルーに移住してから、まだ40年足らずの新参者にもかかわらず急速に成長した妬みもあった。その上、日系人の商売が既存のペルー人の小規模な店との摩擦を生み、ペルー人側が面白く思っていないと言う情勢に、米国が目をつけたとも言われている。このように1930年代の末期には、国内に多くの不安定要素があり、いつそれが爆発してもおかしくない状況だったのである。
1940年(昭和15年)5月13日に起こったリマの排日暴動は、このような社会的背景の下に起きた事件である。しかし、そのきっかけは、日本人理髪業組合内部の、同胞相食む醜い抗争が原因であった。
当時リマでは理髪店の数が飽和状況に達し、このままでは共倒れになることを恐れたH組合長が、市役所の役人を抱きこみ、傲慢にも独断で自分の商売敵22軒に閉店命令を出させた。ところが、閉店を強制された側は、官憲にコネのあるF氏を立てて、市当局にこの命令を撤回させ、争いは法廷に持ち込まれた。H組合長は領事館を抱きこみ、日系新聞もH組合長側につき、F氏を攻撃した。
事件が大きくなったのに驚いた領事館は、F氏に日本への帰国を命じた。ペルー国籍をもっているF氏を強制的に送還することは違法であったが、中央日本人会も領事館の決定を支持した。領事館はF氏を強制送還するため逮捕しようとF氏の家に侵入した。この時たまたま同家にいたペルー人のマルタ・アコスタと言う女性が巻き込まれ死亡してしまった。悪い事に、この女性の親戚に地元新聞社の社長がいたため、新聞は連日、日本人ボイコットを煽動する悪質な排日記事を書きたてた。険悪なムードが市中に流れ、ついに破局がやってきた。
市内のガダルーペ中学の学生が、排日スローガンを書いたプラカードを手にして市中を行進し、これに野次馬が加わり、日本人商店に投石を始めた。暴動はやがてリマ市内から隣接の港町カジャオに飛び火し、さらに地方の都市へも波及した。しかし、不可解にも警察は介入せず、制止さえもしなかった。暴動は5月13日から翌14日の夜まで続いた。この結果、日系人620家族が被害を受け、被害総額は当時の金で600万ドルに達した。このうちの54家族316人が再起不能の被害を受け、1940年7月16日、日本郵船の太平洋丸で帰国を余儀なくされたのである。
悪夢のような暴動は2日間で終わったが、日本人達は暫くは、このショックから立ち直る事が出来なかった。ここで不思議なのが中国人の動きであった。今までは暴動が起きれば中国人の店も被害を受けていたのに、今回は店先に青天白日旗(今の台湾の国旗)を掲げ、高見の見物をしていたのである。このようなことから、当時、日本軍が中国大陸への侵略を続けていたために、中国人が煽動に1枚噛んでいたのではないかとの憶測も流れた。
ところが、事件から11日目の5月24日、リマ市一帯は大地震に襲われた。アドベ(日干し煉瓦)造りの家は大被害を受け大勢の死傷者がでた。誰言うともなく、「罪の無い日系人をいじめた天罰だ」との噂が流れ、科学的知識に乏しい妄信的カトリック教徒だった一般大衆は改悛の情を顕わにした。地面が揺れ戸外に飛び出した人々の中には、「私は日本人に何にも悪いことはしませんでした」と、手を合わせ膝まづいて天に絶叫する女達が沢山いたと言うことである。地震が収まってから略奪した品物を日本人の家に返しに行ったペルー人もいたと言われている。この地震は全くの偶然とは言え、高ぶっていたペルー人の反日感情を抑える上で何よりの役割を果たした。まさしく神風だったのである。暴動は一応収まりはしたが、日米関係の悪化と共に、時代は確実に破局に向かって進んで行った。
ペルーとの国交は、第二次世界大戦でペルーが連合軍に組し、日本との国交断絶を声明した1942年(昭和17年)1月24日に途絶えた。日系人は財産を没収され、米国に強制的に追放されたり、日本に強制送還されたりした。戦争終結後も再移住を認められない人達も大勢いた。このように一時期、ペルーは反日国であり、”日本人移住者の受難の時代”があったのである。それから10年後の1952年(昭和27年)6月17日、日本とペルーとの国交は回復した。
≪鈴木善幸元首相のペルー訪問時の裏話≫
今からほぼ30年前、1982年6月、時の首相鈴木善幸自民党総裁がペルーへやってきた。途中他の国を回ってきたのだが、何しにペルーくんだりまできたのか理由・目的は今では思い出せない。当時ペルーとは外交上にも特別な懸案もなかったと思うし、結局何もなかったので、結果的には総理の引退慰安旅行だったように思う。それでも、KDD(現KDDI)は首相官邸と外務省を直接繋ぐホットラインを引かなくてはならなかった。
KDDには特別通信対策担当という正規の会社機構からちょっとはみ出した担当部署が本社にあった。この担当は、名前の通り皇室や政府のVIPなどが外国に出張するときや、外国や国内で国際的な大きなイベントが行われるときなどに、テレビ・ラジオ伝送やホットラインなどのために臨時に特別な回線を開く作業を行う部門である。私は前記の首相ペルー訪問の特別対策を援助するため、赴任して2ヶ月しかたっていないブエノスアイレスからリマへやてきた。
4月に赴任するときH会長から「戦地へ行くんだな、十分気つけるように」と励まされた。着任と同時にマルビーナス(フォークランド)戦争が始まり、日本から大勢のマスコミがやってきた。当時アルゼンチンは超々インフレの時代で、日本の通信社、新聞社は全社が支局を閉鎖してブラジルなどへ引き上げてしまっていたため、日本の通信関係事業者はKDDだけであった。このため来アした記者達がKDDの事務所へ殺到した。どこかに仲間意識があるのか、気安くなれなれしく出入りしてきた。目的は、テレックスを借りるのと、OCSで2日遅れくらいで送られてくる新聞を見て、自分が送った記事が日本でどの程度に扱われているかを確認したり、同時期にロンドンから日本へ送られた記事と比較したり、さらには日本国内の様子を知るためであった。6月になり、実質的にアルゼンチンの敗戦が決まると、潮が引くよううにいなくなってしまった。テレックス使用料は後で払うと言っていたが遂に1社も払いに来なかった。
ペルーでの特別対策の作業は、リマの五つ星ホテル、クリジョン・ホテルの最上階の首相用スイートルームと手前の秘書官用部屋に首相官邸と外務省を結ぶ直通回線を設定することである。本社から来た特別対策班とペルー電電公社の技術者と数回にわたり打ち合わせをした。最初に顔を会わせたときはびっくりであった。なんと、先方の5,6人の技術者全員がKDDに研修に来た人間で、皆私が千葉の家へ招待した人達だったことである。打ち合わせの途中で、重要な設備部品(首相と秘書官の受話器を切り替えるスイッチだったように思う)がないことが判明した。この件は事前に分っていたことで、ペルー側には品物がないのでKDDが持参してくることになっていたのを忘れてきてしまったのだ。KDD本社から来た者は真っ青になった。そこで、私がこれも知己であった電電公社のP副総裁に助けを求め、結局ペルー側で急遽作ることになり、急場を凌いだ。しかし一難去ってまた一難である。
今度は首相が泊まる肝心のスイートルームが空かないのである。首相は午後2時頃着く予定である。リマでは前日まで、ミスユニバースの南米大陸予選が行われており、首相が泊まる予定の部屋にはミス・ベネスエラが泊まっていたのだ。大会は昨日で終わり、今日の午前中にチェックアウトすることになっていたので首相用に予約してあったのに、午前11時になっても美女が帰ってこない。我々は大いに慌てた。ペルー電電公社の交換局から直接引張ったケーブルを、最上階の首相の部屋へ引き込む予定なのだが部屋が空かないのではどうしようもない。やむなくホテルのマネージャー立会いで部屋に入りなんとか引きこんだ。ベネスエラの美女にはケーブルが見えないように先端を隠しておいた。私は例のスイッチを何処に設置したのかは知らなかった。どうやら部屋が空き、電話器を繋いだのは首相到着の1時間ほど前であった。そんな苦労もなんのその、次期総裁選挙には全く関心のなかった鈴木善幸首相は、日本のことなどさっぱり忘れてリマの休日をじっくり楽しみ、夜はぐっすりお休みなったらしく、ついに1度も電話器を手にすることはなかった。たったこれだけの仕事でも結構費用がかかった筈だが、天下のKDDには痛くも痒くもない話であった。日本とペルーの話のついでとはいえ手前味噌の話を持ち出して大変恐縮である。
主な参考文献: Luis diez canseco nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1有隣堂発行)その他多数。本文内容は無断転載転用引用をお断りいたします。
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