【ウルグアイ  Uruguay】

  我々は1985年以来長い間、”ウルグアイ・ラウンド” と言う言葉を、新聞やテレビで数え切れないほど聞かされてきた。ラウンドとは丸テーブルのことで、ウルグアイ・ラウンドをスペイン語では、Mesa redonda de Uruguayと言う。丸いテーブルについて多角的な貿易のことを話し合おうと言う場のことである。2001年に新たなラウンドが中東のドーハで始まり、ようやくウルグアイ・ラウンドという言葉は消えた。
 1986年に、120カ国以上もの代表が集まったGATTの総会が、ウルグアイ第2の都市プンタ・デル・エステ市で開催された。それ以来、ウルグアイという言葉だけが一人歩きしてきたが、殆どの日本人は、なんとなくサッカーが強い国ということぐらいで、ウルグアイについて馴染みがないと思う。ウルグアイ・ラウンドが行われたのは、プンタ・デル・エステで一番大きく、カシノもあるサン・ラファエルと言うこの地方第一の老舗ホテルである。2回ほど泊まったことがあるが、広さだけは一級だが部屋の中は古く、天井だけがやたらに高く、余り快適とは言えない。  

  ウルグアイはもともと、ブラジルとアルゼンチン両国の緩衝地帯として創られた国で、正式な国名は“ウルグアイ東方共和国”と言う。アルゼンチンとの国境を流れる、ウルグアイ川の東に位置するからである。国内には高い山も谷もなく、ほとんど平坦なパンパが広がる、のんびりした農業国である。従って、この国を書こうとしても、特徴がなく文章の糸口を見つけるのが難しい。ブラジル、アルゼンチン両国の間にあるとは言っても、アルゼンチンとは川幅42キロの海のようなラ・プラタ川を挟んだ一衣帯水の関係であり、一口で言えばミニ・アルゼンチンと言う感じがする。
 ただサッカー(サッカーと言うのは日本と米国だけで、南米は皆フットボールと言う)については、永遠に記念すべき、れっきとした歴史がある、第一回FIFAワールドカップがモンテビデオで行われ、優勝したがはウルグアイであることだ。

  首都モンテビデオとブエノス・アイレスはラ・プラタ川を斜めに削いだような形に向かい合う位置にあり、飛行機で行くと、水面をかすめるように飛んで、離陸後僅か15分で着陸態勢に入る。勿論ベルトをはずす暇などはない。そんな近い位置にありながら、観光客向けに一晩かけてゆっくり走る大型フェリーもあるが、最も普及している手段は、片道60分の高速フェリーボートであろう。

  この高速フェリーは、ブエノス・アイレスと正面に向き合う位置にある、サクラメント・デ・コロニアの町と結ばれている。首都同士がこれほど近い関係にあるのと反対に、ブラジルとは陸続きでありながら、裏口同士の接触なので、どうしても、アルゼンチンとの関係が強くなるのは当然である。裏口のせいか国境意識が薄弱で、例えば、北部でブラジルと国境を接している、チュイ(ブラジルではシュイと言う)と言う町などは、町の中を通る道の真中が国境で、道の両側で言葉違う。国や言葉が違いながら普通の隣人として付き合っているのだ。言葉はそれぞれが、ポルトガル語とスペイン語を理解し合っているので問題はないらしい。

  このような国だから、ウルグアイにはアルゼンチンに似ているものが沢山ある。その中でいくつかを上げるとすると、まず、国旗の色がどちらも水色と白であること、旗に画かれている太陽の顔のデザインも殆ど同じであること、そして代表的な音楽がタンゴであること。ご存知の向きもあるかもしれないが、アルゼンチン・タンゴの代表的名曲と言われる“ラ・クンパルシータ”は、ウルグアイ人のエラルド・エルナン・マトス・ロドリグエスと言う人が作った曲である。 50年の著作権保護期間はとっくに過ぎで、今では誰でも自由に演奏する事ができる。大袈裟な言い方をすれば、世界中のどこかで、毎日演奏されていると言われるほどの名曲である。それに、ワインもウルグアイで造ってはいるが、高級品はアルゼンチン・ワインが圧倒的であり、 電話もブエノス・アイレスからは国際通話ではなく、国内の市外通話扱いである。
  さらには、アルゼンチンにしかいないと思われている、ガウチョ (放牧している牛の面倒を見る人) もウルグアイには大勢いる。勿論代表的料理だって、アルゼンチンと同じ“ビッフェ・デ・チョリッソ(ビフテキ)”である。近年は、ステーキハウスで、ウルグアイ産の肉を出すところが増えてきた、アルゼンチン産と同じように美味なので、ひょっとしたら、アルゼンチンかラ持って来たものの、再輸出か?なんて、バカみたいなことを考えた。

  首都モンテビデオの街並みは、アルゼンチンに住んだ人間には誠に退屈だ。ただ、金融業務は政治・経済の安定化を背景に、以前から自由経済政策がとられていたため、幾たびかのアルゼンチンの経済危機の都度、金持ちが外貨をウルグアイの銀行に緊急避難したという話を随分と聞いたものである。モンテビデオの港は日本の南大西洋の漁業基地にもなっており、その人達を相手にする日本料理店もある。

  両国を分けるラ・プラタ川は、一番上流に近い所でも川幅が42キロもあり、岸からは対岸が見えない海のような川である。川幅の約3分の1くらいまで進んだ辺りで、漸く高いビルの屋根が見えてくる。 川の色は上流のパラナ川が運んでくる鉄分のために赤茶けた色で透明度はほぼゼロに近い。それでも子供達は水に潜り鯰などを獲っている。赤銅色の水は400キロ下流の大西洋まで続いている。

  ラ・プラタ川は川幅と長さがともに約400キロで、川と言うよりは湾のような形をしている。だから、地図で見ると3角形の湾のような形をしている。この河口に位置するのが、ウルグアイ・ラウンドの行われたプンタ・デル・エステ市である。モンテビデオから約140キロ東で、ラ・プラタ川が大西洋に注ぐ突端に当たる。そのため、市の名前が、プンタ・デル・エステ(東の先端)と言うのだ。この街は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、アルゼンチンのマル・デル・プラタと並び、南米大陸大西洋岸の3大リゾート地の一つである。 ラ・プラタ川の赤茶けた水の色は、漸くこの辺にきて色が薄れ、本来の大西洋の色になってくる。市内には豪華マンションやホテルが立ち並び、ヨット・ハーバーには高級ヨットが浮かび、立派なゴルフ場もあり、夏のバカシオンには外人で溢れる。特に多いのがアルゼンチン人で、リゾート施設で働く人以外の一般のウルグアイ人には無縁の都市になる。

  ほぼ100%の農業国なので、ウルグアイの産業も農産物(大豆、小麦、ゴマなど)と牧畜業、その加工品といったところが主な物である。以前、ウルグアイの友人に、機械産業はないのかと聞いたとき、彼は、ウルグアイにも自動車産業があると答えたのに驚いた。それは実は、クラシック・カーの部品を作る工場の事だったのである。ウルグアイには20世紀末までは、T型フォードのような年代ものの車が走っていた。キューバで走る古い米国産自動車よりも、さらに古い時代のものだ。21世紀も20年以上も過ぎた現在はどうなったろうか。クラシックカーの手入れが出来る国は世界遺産にならないだろうか。
  内陸部は緩やかな傾斜地が多く、直線の道は遥か彼方の丘の稜線を横切り、上下に波を打って伸びている。古い鉄道も走っており、”今は山中、今は浜・・・・”と言う昔の小学校の唱歌を思い出させる。中央部を流れる“ジ川 (Rio Yi)”と言う川があるが、おそらく世界一短い名前ではないだろうか。

  ミニ・アルゼンチンのような国なので、民芸品にも特に目新しいものは少ない。ただ、アルゼンチンにないものとしては、オットセイの毛皮の敷物と、毛皮を使った動物人形があった。オットセイの毛皮は一見牛の毛皮と見間違えるが、両方の“ひれ”に当たる場所に大きな穴が開いているのが特徴であった。今は禁制品となって、毛皮などはとっくになくなっていると思われる。それと、椰子の実を削ってガウチョの顔を作った物も民芸品として面白い。
 それと、陶器の小さな動物の人形があるが、これは大分前から日本でも売っている。ウルグアイから、どうしてこんな物だけが、輸入されるようになったのか不思議でならない。この他には、南米では珍しくないアメジストが北部のブラジル国境付近で採掘される。アメジストは宝石ではなく輝石といって値段は安い。これを細工した装身具が、かなり手ごろな値段で売られている。ただし、石の台には銀が多く、金台でも14Kが大部分である。

  ところで“民芸品の旅”というタイトルとは、全く縁のない話であるが、モンテビデオを語る時にどうしても、忘れてはならないことがある。本題とは大分横道に逸れることをお詫びして、この話をしたいと思う。
  それは、80歳代以上の人たちは記憶している人もいると思うが、第二次世界大戦初期の1939年(昭和14年)に、ドイツの豆戦艦グラフ・シュペー号が、南大西洋で英国艦隊に追われて、中立国であったウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込み、最後に自爆した有名な話である。シュペー号は、長い間モンテビデオ港外に沈んだままだったが、1995年4月に、ウルグアイ海軍と英国のオックス・フォード大学による合同調査が行われ、50年以上も川底に横たわっていた悲劇の戦艦の残骸の様子が明らかになった。そのときの現地の新聞記事を要約して紹介する。


【ドイツ豆戦艦グラフ・シュペー号の最後】
(ブエノス・アイレス日刊紙、クラリン、1995.4.24)  
  
≪≪≪≪≪シュペー号がモンテビデオ沖に沈んだのは1939年12月17日のことで、シュペー号の艦長ハンス・ラングスドルフの決断によるものである。艦首には当時爆発しなかった爆薬が未だに残っており、ウルグアイ海軍にもどの位の量の火薬が残っているのか分かっていなかった。このため、105ミリ大砲の引き上げには細心の注意が払われた。当時の自爆の様子を知る、ウルグアイ人のバド氏は次のように語っている。   
  『シュペー号の艦長と士官達は、砲弾の火薬を利用した爆薬を艦尾と機械室付近及び艦首の3か所に装置した。この爆薬は艦長がシュペー号から離れる時に乗ったランチから操作し、同時に爆発するはずであったが、艦尾と機械室の2か所が始めに爆発し、その衝撃で艦体が激しく揺れたため、艦首の爆薬装置が作動せず不発に終わった。
  爆発は艦尾にある100トンを越す口径280ミリの3つの砲座から始まり、破片は60メートルの高さまで飛び散った。さらに、火薬庫に近い機械室からも大爆発が起こった。
  排水量1万2千トン、長さ185メートル、幅22メートルの艦体は真っ二つになって、右に50度傾き川底に横倒しになった。しかし、艦首の下に仕掛けられた爆薬は爆発せずに、今日まで不発のままであった。いつ爆発するか分からないので、潜水グループが艦首に入るときは細心の注意が必要であった。この調査で大砲と船体の一部が引き上げられた』。
  地元の歴史研究家メディアナ氏は 『シュペー号は12月17日夜8時、モンテビデオ港から凡そ7キロ沖のプンタ・ジェグーナで自爆したもので、当日は日曜日とあって、凡そ20万人の人々が海岸でこの世紀のスペクタルを見物した。また、港の周辺では80隻を越す船舶が見物していた。英国艦隊との海戦を避け、シュペー号の千人以上の乗組員の命だけでなく、英国艦隊の乗組員をも救ったラングスドルフ艦長は、ウルグアイ人の間で未だに賞賛に値する人物として尊敬され、この事件は今日までウルグアイの民族的歴史として伝えられている』 と語っている。≫≫≫≫≫ 

  シュペー号の錨は引き上げられ、今もモンテビデオ港の近くに置かれている。

          (ウルグアイ編終わり)  

パラグアイ編へつづく
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