【パラグアイ Paraguay】 南米大陸の中で国と国とが本格的に戦争をしたのは、過去に僅か3回だけ(注)であるが、パラグアイは、そのうちの2つの戦争の当事国となっている。一つは1864年から6年間も続いた、パラグアイとアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ連合軍が戦った三国戦争である。この戦争では大敗を喫し、悲惨な経験をした。もう一つは、1932年から1935年にかけて、ボリビアと戦ったチャコ戦争で、これには勝った。 後の一つは、パラグアイには関係ない戦争で、1879年から1883年まで続いた、チリとボリビア、ペルー連合軍が戦った、いわゆる"元祖太平洋戦争"である。 パラグアイの原住民はグアラニ族で、南米の原住民の中でも、最も従順で素朴な種族である。このためか、スペイン人が侵入してきた当時は、南米各地の原住民がスペイン人に対する抵抗闘争を起こしたのに、パラグアイでだけは、このような抵抗を受けずに、スペイン人は入植したのである。 パラグアイは、ボリビアと共に海への出口を持たない内陸国のため、産業貿易の発達が遅れ、今でも貧困に悩んでいる。ボリビアとパラグアイの経済開発が遅れているため、南米全体の発展の足並みが揃わず、自由経済圏がいくつもできる原因だといわれている。ただ、内陸国と言っても、ボリビアとは違い、パラナ川〜ラ・プラタ川を経由して,1400キロもある大西洋と直接結ばれ、首都アスンシオン港までは、1500トンもの船が通行できる。しかし、航路は全部アルゼンチンの領土を通るため、かなり高い通行料を払わなくてはならず、これが発展を阻んでいる。 パラグアイの国土は、ボリビアと接する西部チャコ地方のジャングル地帯と、東部の豊かな平野と森林地帯に分けられる。私がチャコへ自動車で行ってみたいと言ったら、行くなら必ず2台以上で行けと言われた。チャコ地方には殆ど人が住んでおらず、車も通らないので、もし故障したり、ガス欠にでもなって動けなくなったら、飢え死にしてしまうかもしれないからだそうである。このような地勢の国なので、産業は殆どが農牧産業で、その他に目立った産業はない。 アスンシオン郊外に国内唯一の湖、イパカライ湖があり、かっては海のないパラグアイ人の格好の保養地になっていた。しかし、その後は工業廃水で汚染され、現在は立ち入り禁止の状態である。ラテン音楽愛好家ならば、この湖の名前を題にした"イパカライの思い出"と言うフォルクローレをご存知かと思う。 パラグアイは、南米各国の中でも有数の親日国で、日本の経済技術援助の重点国であり、特に電気通信関係の技術や資材設備などの援助が多い。1970年代からKDD(現KDDI)を始め、NTT、NHKの技術者が通信・放送施設の建設や技術指導に携わってきた。イパカライ湖畔に立つ,衛星通信用アンテナも日本の援助(主としKDD)で出来たものであるし、2000年に運用を開始した携帯電話会社"オーラ・パラグアイ"も100%KDDの資本援助で創立されたものである。 アスンシオン市は、人口50万の、こじんまりとした地方都市といった感じの街で、スペイン統治時代の名残の残る、コロニアル風の建物が多い。 春先(日本の9月頃)には、市内にラポーチャの紫の花が美しく咲き乱れる。大統領官邸は、一旦緩急ある時は大統領がすぐに船で逃げられるようにとの配慮から、パラナ川を背にして建てられている。大統領官邸は、パリのルーブル美術館を真似した建物と言われており、前庭の花壇にある花時計は7〜8月に綺麗な花を咲かせる。 パラグアイは、第二次世界大戦後から二大政党間の争いにより内戦状態がつづいたが、1954年のアルフレッド・ストロエスネルのクーデターにより政治が安定したが、1989年2月に仲間割れにより独裁政権が終焉、1989年5月に総選挙が実施され、民政に移管された。国内各地にはストロエスネルのたが名前の着いた町や通りが残っていた。アスンシオン国際空港もストロエスネル国際空港であった。しかし、政権が変わり、これらの名前は一掃され、パラナ川に面したブラジルとの国境に位置するパラグアイ第2の都市、プエルト・プレシデンテ・ストロエスネル(ストロエスネル大統領の港)もシウダ・デル・エステ(エステ市=東市)と名前を変えた。パラグアイでは、2023年4月に総選挙が予定されている。 パラグアイには凡そ7000人の日本人移民がおり、2016年には移住80周年記念式典が行われた。このような背景から、アスンシオン市内には、"ハポン通り"がある。しかし移民の中には、生活上の問題からアルゼンチンへ再移民してきている人も多い。 パラグアイと言う国には、大きな遺跡はなく、遺跡と言えば、先に述べた"レドゥクシオン"の跡くらいであり、
地勢的にも森林や湿地帯が多くて、自然美と言うような風景・景観に乏しく、観光資源の少ない退屈な国である。このため観光客も少なく、同じ途上国のボリビアと比べて、外貨収入の資源の点で劣っている。 私は、始めてパラグアイを訪れた時、自動車で行ったが、遠くから放牧されている牛を見て馬と間違えた。体格が細くて腹にあばら骨が浮いているので、どう見ても牛には見えなかったからである。近くに寄って始めて牛だと気がついたのだ。色々聞いた結果、牛らしくない理由が分かった。 これに反して、ウルグアイやパラグアイなどのように、大きな山はないが、地勢全体に傾斜地が多く、牧草が十分ではない土地に住む牛は、草を求めて斜面を移動しなければならないため、肉は硬くなり、痩せているというわけなのである パラグアイの民芸品は、世界的にも有名な、"ニェアンドゥティ"に尽きる。これは、日本語に訳すと"蜘蛛の巣様刺繍"と言う。一口に蜘蛛の巣刺繍というが、二つの種類がある。 一つは,四角い木枠に張った布の上や、衣類の上に、普通のフランス刺繍のように、いろいろな色の糸を使い、花や動物の模様を刺繍したものであり、もう一つは、生地の上に描こうとする図柄を残し、それ以外の糸を抜いたり、括ったりして花模様を浮き立たせるものである。これらは壁掛けとして飾られるほか、テーブルセンター、敷物、ハンカチなどに使われる。アスンシオンからシウダ・デル・エステへ行く国道沿いの、イパカライ湖近くにあるイタウグアと言う町が主な生産地である。 かっては国道の上まで店を広げて観光客に呼びかけていたが、いまは、国道が拡張され、店も大分道の内側に引き下がった。このほかには、木彫りの動物や壁掛け、人形類、それに革製品などがあるが、革製品はナメシが固い。 民芸品ではないが、パラグアイと言えば、アルパ(インディアン・ハープ)と言う、34〜36本の糸を持つ弦楽器が有名だ。アルパの音色は高い金属性の音で、心に響くが、演奏される曲は単調なものが多く、初めて聞く人にはみな同じ曲のように聞こえると言われる。また、民族芸能として、ダンサ・デ・ボテージャ(瓶踊り)と言う踊りがあるが、異国人には珍しい踊りであろう。東洋人に似た顔つきと体型の美女が、頭の上にビール瓶やワインの瓶を何本も重ねて(多い場合は20本位もある)、リズミカルな音楽に合わせて踊るのであるが、観客は終わるまで、はらはらのしどうしだ。 一般の日本人の行くツアーの観光ルートからは全くと言ってよいほど、取り残されたパラグアイであるが、アルゼンチンやチリなどからは、"田舎っぺえのパラゲーニョ"と言われるほどの素朴な国であり、治安も良いので、グアラニ族の笑顔を見て、ひと時のんびりするにはもってこいの国である。
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