エクアドル  Ecuador


  赤道の下には15以上もの国や島嶼があるのに、南米のエクアドルだけが"赤道"の名前を独占しているのは不思議な話である(アフリカに赤道ギニアと言う国があるが、この国の位置は正確には赤道より少し北にずれている)。

  赤道直下でありながら、涼しい風が吹き、北部アンデスの高峰には万年雪が残っている、太陽とは一見縁のないような感じのするエクアドルは、南米大陸の中では、ウルグアイに次いで小さく、インディヘナの割合はボリビアに次いで多い国である。この国については、日本では余り知られていないように思えるので、日本と関係のあることを、私の知っている範囲であげてみよう。

@1918年に野口英世博士が黄熱病の研究のため、グアジャキールにわたり、ワクチンを開発して流行を食い止めた。その功績を称え、エクアドル政府は、"名誉大佐"の勲章を贈った。グアジャキール市のほぼ中央部に野口通りがあり、胸像が立っている。

A1931年に米国の宣教師がキリスト教放送のために開局した"アンデスの声"短波放送局が、1964年から長年日本語放送を行っていた。ラテン・アメリカに関心のある人はたいてい知っていた。この放送局はキト市の外れにあり、世界の18の言語で放送しており、民族音楽や現地の出来事などを伝える番組である。情緒ある局名とともに、宗教を越え、世界の短波放送愛好家に広く知られていた。

Bかっては日本全国に流行したパナマ帽の源産地である。パナマはこの帽子の輸出港であって、帽子そのものはエクアドルで作られている。

C何気なく食べているバナナの中には、エクアドル産がたくさんあり、2008年頃からは移住した日本人が、自分の名前をいれたバナナを日本に輸出している。現在でもスーパーで売っているバナナにはエクアドルの「田辺農園産」というのをよく見かける。大きなバナナである。 

  この国の商業経済の中心地は、太平洋に面した港湾都市グアジャキールで、首都キトはアンデスの山中の盆地のような場所にある。玄関口の、マリスカル・スクレ国際空港は、飛行機から見下ろすと、滑走路がたった1本だけの小さな空港である。空港はキト市の北の外れにあり、中心部から約10キロ離れている。

  キト市は新旧の2つの地域に分かれていて、新市街には、公園や近代的なビルやホテル、文化施設や官庁などがあり、旧市街には、植民地時代の古い建物が残っており、住宅街の通りは狭く、ごちゃごちゃした感じで、民芸品などを売る店も多い。  

  エクアドルの民芸品は、南米の他の国と同じように、木彫りの人形類とか、毛織物、陶器などが主である。木彫り人形は百姓や、乞食を扱ったものが多く、比較的大きなものもあるが、重いので旅行者には持ち帰るのが厄介だ。珍しいものとして、パンをこねて、人形や花の形に固めた"マサパン"と言うものがある。これについては後で述べる。

  この他に、民芸品とはちょっと異質であるが、これこそエクアドルにしかないと思われる、"Tzantza(ツァンツァ)"と言う、人間の首を干して縮小したものの複製品がある。本物のツァンツァは、ヒバロ族が、部族間の戦争で捕虜にした敵の首を、そのまま約半分の大きさに干し固めて作ったものである。頭蓋骨そのものを縮小するのだが製法は秘密だそうだ。この風習は、戦った仇敵への呪いのために、捕虜の首を自分の家の天井にぶら下げておき、朝夕これに向かって思い切り悪口を吐くと言うものである。ある米国人が、製法の秘密を探ろうとしたところ、自分がツァンツァにされてしまったと言う話がある。以前は本物も売られていたが、今は販売禁止になっている。男よりは女、土人よりは白人の首の方が高いそうだ。民芸品として売られているものは、羊の鞣革を使った模造品であるが、実に良く出来ている。2011,12年頃に上野の国立科学博物館で行われた南米の何かの展示会でツァンツァの作り方が展示されていた。  

  旧市街の目玉は、1535年に造られた、南米で一番古いサン・フランシスコ教会である。頑丈な建物だったが、1987年の大地震で、あちこちが壊れ、修復に10年以上もかかったが、大部分は当時のままの状態を保っている。この教会前の広場から、キト市の南端に当たるパネシージョの丘が一望にできる。高さ180メートルほどの丘であるが、頂上には、"ビルヘン・デ・エクアドル"と言う、コンクリート製の聖母マリアの像が建っている。この像の下に名前を彫ると、再びキトに来ることができるとの言い伝えがあるので、私も最初に行った時、持ち合わせていた爪切りの端で名前を刻み込んだら、その5年後に本当に、再度この丘に登ることが出来た。頂上からはキトの新旧市街が一望にでき、地理を把握するのに好都合な場所である。 

  エクアドルに行ったなら、"赤道記念碑"は絶対に見落とせない場所である。記念碑はキト市の北方約22キロの、サン・アントニオ村の広場の中に建っている。記念碑は高さ30メートルで、てっぺんには直径4.5メートルの地球儀が乗っている。記念碑の下には、南北緯度0度を表す赤と白の線が引いてある。ここを訪れた観光客は、必ずこの線を跨いで写真を撮る。南北両半球一跨ぎと洒落るわけだ。赤道をまたぐと言えば、コリオリ現象といって、赤道を挟んで、水の渦が北側は反時計回り、南は時計回りに回る。これは、赤道線(地面に北は白、南は赤で引いてある)から数メートルの場所で起きると言われる。(私は見たことはない)。                                                            

  この記念碑は、以前はもっと辺鄙な場所にあったものを、1979年頃に現在の場所に移設したものだ。今の場所は周りに土産物屋が沢山並び賑わっている。この他にも、赤道を示す標識は、南米大陸の太平洋岸を南北に走る、パン・アメリカン・ハイウエーなど、赤道直下に当たる場所に大小の標識が立てられている。

  記念碑と言えば、やはりキト郊外に、インカ帝国最後の皇帝になった、アタウアルパの胸像がある。15世紀にインカ帝国の皇帝ワイナ・カパックがエクアドルを征服した。ここがインカ帝国の版図の北限になる。エクアドルを征服したワイナ・カパックは、2人の息子の一人アタウアルパにキトを支配させ、もう一人の息子ワスカルにクスコを統治させた。しかし、ワイナ・カパックの死後二人の兄弟は、王位継承をめぐる長期間の戦争を繰り広げ、1532年に漸くアタウアルパが勝った。

  丁度その頃、スペイン人のフランシスコ・ピサロがペルー北部のツンベスに上陸、黄金を求めて次第にエクアドルに侵入してきた。鉄砲や馬を持たないインカ軍は、少数のピサロ軍に敗れ、アタウアルパは遂に捕虜となり、1532年11月、ペルーのカハマルカで殺され、インカ帝国は滅亡した。この最後のインカ皇帝アタウアルパの記念碑である。   

  エクアドルと言う国は、インディヘナの数がボリビアに次いで多い。しかし、ラ・パスのように、街中に伝等的衣装をまとった人たちが歩いているわけではない。その代わりではないが、地方にはインディヘナの町や村が沢山あり、毎週土曜や日曜にはインディヘナの市が立つ。こうした市(いち)に集まる人達は、被る帽子によって出身地を見分けることができる。

  各地にあるインディヘナの市の中でも、オタバロ町の市が一番有名である。オタバロはキトからパン・アメリカン・ハイウエーを2時間ほどで行ける場所で、十分日帰りができるので観光客には嬉しい。この途中のカルデロンと言う村が、先にちょっと触れたが、エクアドルの有名な民芸品の一つである"マサパン"(マジパンという人もいる)の産地である。マサパンは、パンをこねて、動物や花などの形に固め、乾燥させて色をつけたものである。形は様々で、大は30センチくらいの置物から、小は胸につけるブローチ、ペンダントなどまである。私も幾つか買い自宅の"民芸品博物館"に陳列しておいたが、生のパンを固めたものなので湿気に弱く、中に閉じ込められていた虫が復活し、中から食い荒らして、人形をぼろぼろにしてしまった。そのため写真が紹介できないのが残念である。 

  オタバロのインディヘナの市は、流石にエクアドル民芸品のショーウインドウのような観がする。中でも目を奪われるのは、毛織物の敷物や壁掛け、ベッド・カバー、袋物、クッションなどで、鮮やかな色彩は見事なものだ。色鮮やかな織物が、山と積まれている市の光景は、それは美しいもので、平均身長150センチくらいの小さいオタバロ族の人々が着る、真っ黒いポンチョが一際、浮き上がって見える。

  アンデスの高原に暮らす人たちの貴重なタンパク源である、"クイ"(天竺鼠、モルモット)を焼いて売っているのは、日本人にはちょっと気持ちが悪い。壁掛けや敷物、ポンチョなどの毛織物のデザインには、いずこの国のものもそうであるように動物が主である。しかし、ここの動物には、ハチドリとかガラパゴス諸島の亀など、他の国にはないモチーフがある。

  特にハチドリは、鳥類の中で一番小さい鳥で、南北両アメリカに約300種程住んでいるが、その内米国には約20種くらいなのに、エクアドルには100種類もいて、米大陸で一番種類が多い。ハチドリは、体長8センチ未満で、体重は4グラムほどの小さな鳥である。羽の色は光沢のある緑色を基調にしているが、玉虫色に変化して輝く美しい鳥で、"空飛ぶ宝石"とも言われている。花から花へ蜜を求めて飛び渡り、蜜を吸うために空中静止ができるように、1秒間に80回以上も羽を回転させる。また、蜜を吸いやすいように、舌が嘴の2倍以上も伸び、エネルギーの補給のために、1日に体重の2倍もの蜜を吸う。花から離れる時に、後ろ向きに飛べるのもハチドリだけの特技である。  

  ガラパゴス諸島がエクアドル領だと言うことを知らなくても、この諸島の名前だけは有名である。チャールス・ダーウインの進化論で世界に知られたガラパゴス諸島は、1978年に世界自然遺産第一号に指定された。この貴重な島々も、島の開発や、1994年5月に起きた大規模な山火事、さらには、心無い観光客が棄てるゴミ、付近で起きたタンカーの座礁事故で流れ出した大量の重油などが重なって生息地を襲い、生態系を壊す環境破壊が、予想を超える速さで進んでいる。こうした環境破壊に警鐘を鳴らす写真集「ガラパゴスがこわれる」を、日本人の藤原幸一さんという人が2008年2月に出版した。人間の活動がいかに自然をか変えてしまうか、本当に恐ろしいと語っている。でいる。

  この諸島にしか生きていない、陸イグアナ、象海亀、飛べないコバネ鵜、ガラパゴス・ペンギンなど、そのうち見られなくなるかも知れない。象海亀は、かって25万頭もいたのに、今では最大に見積もっても約1万4千頭しかいないと言われる。保護の努力が続けられているが、密漁者に獲られたりして、減少が続いている上に、人間が島に持ち込んだ動物達が、卵や子亀を襲ったりして、減少に拍車をかけている。

  エクアドルを書くには、抜かしてはならないことがある。それは、コロンビアとの国境に近い南部の長寿村、ビルカバンバ村のことである。ビルカバンバとは、ロハ県のマラカストス、ビルカバンバ、ヤンガーナの3部落の総称で、全部の人口は約5千人である。古い国連の統計によると、5千人の中で、100歳以上が約380人、90歳以上が約600人と言う、驚くべき数字が記録されている。(2020年頃の人口等は不明)。

  住民の農民達は素朴で早寝早起きでよく働き、食事は粗食で過ごし、ゆったりとした平和な生活の中で、ストレスは全く感じていないと、この村を研究した各国の研究者は報告している。村は海抜1600メートルの高地にあり、気温は常に20度前後、自然環境は極めて良好である。地味は豊な上、特にアンデスの山から流れ出る水は、美味で炭酸カルシュームの含有量が豊富である。このような条件が健康を保つ長寿の原因と見られている。飽食でいらいらの多い生活を送る日本人には、真似のできない、羨ましいことである。

  先のペルー編でも述べたが、南米大陸の太平洋岸の国々は、地震の巣の上に座っているようなものである。キトから南へ下るパン・アメリカン・ハイウエーの両側を、アンデスの連山が平行して走っているが、この中にはコトパクシ、イリニサなどの火山が混じっている。19世紀にドイツの地質学者アレキサンダー・フォン・フンボルトが、このあたりを"火山大通り"と命名した。有難くない大通りは、しばしば大きな地震を起こす。

   1987年3月には、アマゾン源流地帯に近い東部のナポ州で、1996年3月には、海抜3000メートルを越す、インディヘナが住む山岳地帯で大きな地震が起き、大勢の死者や家屋の倒壊を引き起こした。  

  地震も自然現象の一つと捉えるのならば、エクアドルは、むせ返るような湿気に覆われた海抜ゼロの海岸地方から、涼しい高原、活火山の多い火山地帯、未だに外界との接触を拒んでいる原住民のいる密林地帯まで、全ての自然現象や環境を揃えた欲張りな国である。

  南米の国々の中では治安の良い国である(2023年現在、左派政権が圧倒的に多い南米で、エクアドルは比較的右よの保守政権が続いている)。なので、ペルーへ行くチャンスがあれば、2〜3日日程を水増しして、赤道を跨いでくるのも一興であろう。ただし、音楽や食べ物は余り期待しない方が良いかもしれない。           

 (エクドル編終わり)

コロンビア編へつづく
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