【コロンビア Colombia】

   
1980年代後半になるが、五木寛之原作の小説を元にした「戒厳令の夜」と言う映画があった。主演は、小林圭樹、伊藤孝夫、樋口加奈子などで、当時新人の樋口加奈子が、全裸のヌードでデビューしたのを覚えている。 ストーリーは、南米のどこかの国(この映画ではグラナダとなっていたと思う)から流れ出た有名絵画を、伊藤孝夫、樋口加奈子の二人がその国に返しに行き、そこで起きた反乱に巻き込まれて死んでしまうと言う筋書きに、小林圭樹がに扮する自衛隊の幹部がクーデターのようなことを起す話が絡んでいたように思う。残念ながら詳しい事ははっきり覚えていない。

  物語りの中の反乱は、チリのアジェンデ政権を倒した、ピノチェット将軍の革命(1973年9月)をモデルにしているようであった。この革命シーンなどの海外ロケがコロンビアであった。映画の中では特に撮影地についての説明などなかったが、映画を見ていて、見覚えのあるモンセラーテの丘やら、国立競技場だとか、ボリーバル広場などが出てきたのですぐに分かった。

  モンセラーテの丘は、市の西に立っていて、ボゴタのシンボルである。ここからは新旧市街が一望にでき、特に夜景が素晴らしい。頂上には教会があり、祭壇の後に回ると、何百、いや何千かもしれない松葉杖と、落書がびっしり書かれたギブスが、通路一杯に積み重ねられている。ここは、身体障害にご利益のある寺院なのである。この丘にはリフトとロープウエーの両方で登ることができるが、この丘の下がすりやかっぱらいがうようよしている、観光客などにとってはまことに危険な所である。丘の手前に南米解放の英雄シモン・ボリーバルの別邸があり、年中観光客で賑わっている。

  1996年12月にグアテマラの内戦が終わって、ラテン・アメリカには平和がやってきたと思っていたが、コロンビアだけはその後も反政府軍との内戦が続いたが漸くに和平交渉が成立し、2022年6月には元反政府軍ゲリラだった、グスタボ・ペドロ大統領が選出され、コロンビア初の左翼政権が誕生した。

 コロンビアといえば、まず思い浮かべるのは、コーヒーとエメラルド、そして、近年はカーネーションであろう。コーヒーは、南米ではブラジルに次ぐ生産量を誇っている。中西部アンデスのアンティオキア州の1300メートルから1800メートル位の高原で栽培され、現地ではティントと呼ばれており。そのマイルドな味は日本人にも珍重されている。

  その昔、クレオパトラがすっかり気に入っていたと言われるエメラルドは、世界の60パーセントを産出する。昔、日本人の河合誠一さんと言う人が、コロンビアで産出するエメラルドの半分を輸出していて、エメラルド王と言われていたが、その後はどうなったのだろうか。

  このような国だけあって、市内には宝石屋が多い。ガードマンに厳重に警備されている。エメラルドはこの国を訪れた旅行客の欲望を刺激する。エメラルドには澄んだ色(透明度が高いので色が薄い)のものから、濃い緑色まであるが、欧米人は澄んだ色のものを好み、日本人は濃い色を好むと言われる。石の中に別の結晶があるのが良いとされているようだが、私には本当のところはよく分からない。
 かっては市内の薄暗い通りなどで、汚い子供がポケットから、エメラルドらしき緑色の石をいくつも取り出して ”安いよ安いよ” と売りつけてきたが今はいないようである。これだけは絶対に買ってはいけない。

 ちゃんとした宝石店は、扉が二重になっていて、その上にガードマンがピストルを持って立っている。我々が買うのには、やはりこのような店で買うのが間違いない。宝石にとって絶対に欠かせない金やプラティナもコロンビアは南米最大の産出国であるが、その割には、指輪でもブローチでも、驚くほど安いと言うわけではなく、値段はせいぜい日本の半分位だったと覚えている。
 近年コロンビアは、日本へのカーネーションの輸出が増加している。何時間くらいで成田まで来るのか知らないが、特に、"母の日"が近くなると、この量が急激に増える。

  コロンビアは、宝石や金、プラティナがたくさん採れだけではなく、国花にもなっている美しい蘭の花(オルキディア)があちこちに咲き誇り、色とりどりの果物が溢れ、美味しいコーヒーがふんだんに飲め、人々は陽気なクンビアのメロディーに乗って踊る、色彩溢れる美しい国である。その上、コスタ・リカ、チリと並び3Cの国の一つとして、石を投げれば美人に当たると言われるほど、すべてが羨ましい国なのに、残念なことに麻薬にからむ血生臭い事件が多く、何となく敬遠したくなる国でもある。
  それに、この国は南米西海岸に横たわる火山帯の上にあり、ご多聞に漏れず地震が多く、火山の爆発もある。1985年には西部のネバダ・ルイス火山が爆発し泥流で麓のアルメロという町が消滅した。1993年1月にはガレラス火山が爆発し日本人研究者も危険な目にあった。1994年6月、1995年2月、1999年1月とM6以上の大きな地震が起き、最近では2008年5月に中部でM5.6の地震があり6人が死んだ。

  ボゴタ市内にある黄金博物館は、コロンビアに行ったら是非見学しなくてはならない場所だ。"エル・ドラ-ド"と言う言葉は、新大陸の征服者達がアマゾン川の流域に求めた、伝説の黄金境のことであるが、この伝説の発祥地がコロンビアである。1939年に建設された博物館で、サンタンデール公園の一角にあり、ものものしい警備がなされている。
  収蔵する黄金の品々は36000点に及ぶといわれ、中に入るとガラス・ケースの各陳列棚には、大は宗教儀式の装身具や装飾品から、偶像、器などまで、まばゆいばかりに燦然と輝いている。中でも小さい製品は、並べてあるのではなく、雑然と放り込んであると言う表現がぴったりする。
  2008年9月に、東京上野の国立科学博物館で 「ジパングとエル・ドラド」 と言う展覧会があった。世界の有名な金製品が陳列された中に、このコロンビアの黄金博物館の所蔵品の一部が出展されていたのを覚えている人もいると思う。

  このような国なので、コロンビアの民芸品は、金銀を使った物が多く、デザインは蘭(オルキディア)の花をあしらったものが特徴的である。その他には、革製品や陶磁器、籐細工、牛の角をつかったものなどがある。牛の角と言えば、ボリーバルの別荘の入り口から建物までの、アプローチの両側の土留めが、全部牛の背骨を埋めたものであったのには驚いた。
  果物や野菜を満載したトラックや、チーバと言う乗合バスを模った陶製の置物は、ラテン・アメリカの他の国では、ついぞ見かけない民芸品である。牛の皮でできた水筒は、ワインや水などを入れて携帯するものだが、現在では模様や風景などを画いたものが室内装飾品として民芸品になっている。

  コロンビアの代表的音楽は、チリのクエッカに似た、男女がペアーになって回りながら踊るクンビアである。観光客相手の市内のショー・レストランで、毎晩鑑賞することができ、これを形取った人形もたくさんある。市内にある巨大なガレリア(吹き抜け式のショッピング・センター)"ウニ・セントロ"は、南米のガレリアの中でも草分け的存在と言えるものである。

  ボゴタから50キロ程北へ行くと、シパキラの岩塩洞窟がある。ここは、海抜2600メートルの高地にあり、岩塩の山を刳り貫いた塩の教会がある。中の温度は平均14度で、ひんやりとする。教会の壁を舐めてみるとどこも、しょっぱい味がする。ここは、スペイン人が侵入してくるまでは、原住民の酋長"シパ"の住居だったものである。ボゴタ郊外にはこれと言った観光ポイントがないので、シパキラの岩塩洞窟の教会は、唯一の観光地とも言える場所である。

  コロンビアには、植民地時代の面影を今も色濃く残しているカルタヘーナとか、コーヒー、砂糖産業の中心地カリとか、常春の気候で国花の蘭の主生産地メデジン、それに紀元前900年頃まで栄えた石像文化の遺跡があるサン・アグスティンなど、観光地としての魅力を十分に備えた所が各地にあるが、私は、訪れる機会がなかったため、紹介することができず、また、収集した民芸品も少ないので、コロンビアについては底の浅い内容になってしまったのが残念である。

  そこで、本来はアルゼンチン編で書くべきことかもしれないが、メデジンと言う都市の名前が出てきたついでに、アルゼンチン・タンゴを多少なりともご存知の方は名前くらいは知っていると思う、不世出の偉大なタンゴ歌手カルロス・ガルデルが、メデジン空港での飛行機事故で死んだ真相について触れて見たいと思う。この真相は、88年も経った今でも、完全には究明されていないミステリー物語である。
  この事故は、1935年6月24日の午後3時頃に起きた。3時頃としか正確な時間が言えないのは、遺体の持っていた時計や、飛行機の時計、それに飛行場の記録が皆違っているからである。以下は私が、かって(財)ラテン・アメリカ協会発行の機関紙に載せた随筆の要約である。

  『この日、ガルデルはボゴタから次の公演地カリへ行く途中、メデジンに立ち寄った。ガルデルの乗ったコロンビアのSACO航空のフォード・トリモトール(3発)F31機は、離陸しようとしたとき、行く手にドイツのSCADTA航空のマニサレス機がいることを発見した。F31のパイロット、サンペール・メンドサは、マニサレスのパイロット、トムとは、個人的にも、また、ドイツの南米進出を心良く思っていなかった国民感情の上からも仇敵同士だったので、メンドサは、トムを驚かせてやろうとして、マニサレル機の僅か120メートル手前で離陸した。サンペール・メンドサの思惑は、マニサレス機の10メートル上をかすめるつもりであった

  ところが、順調に上昇したにもかかわらず、マニサレス機の50メートル手前で、急に失速して、マニサレス機の上にまともに墜落してしまった。両機は炎上してマニサレス機の乗員乗客は全員死亡、F31機の方は、2名の乗員と、乗客(全員ガルデルの関係者)11名のうち、一番前の席にいたガルデルを含む4名が死亡し、5人が救出された。この事故の原因を巡り、幾つかの疑問が投げかけられた。

  その中で、事故調査委員が最も重視したのは、メンドサ操縦士の頭にピストルの弾が埋まっていたということである。弾丸の飛んできた角度などから想定して、ピストルは地上から発射されたものと考えられた。その証拠にマニサレス機の副操縦士が手にピストルを持ったまま死んでおり、側に焼け焦げた薬莢が落ちていたからである。その理由は、自分の飛行機に向かってF31が突っ込んでくるように見えたので、恐怖に駆られて撃ったのか、機長のトムに命令されて撃ったのではないかなどであった。しかし、地上から上空を飛んでくる飛行機のパイロットを狙うなんてとても無理な話、ましてや100メートルも離れているのでは、とても不可能なことだと反論する人もいた。

  このピストルについて当時の新聞は、これは信号用ピストルで、弾丸は優に100メートル以上は飛ぶので、正確にパイロットに当たらなくても、窓ガラスを割る事はできる。それが砕けて操縦不能にさせることはできると言う説もあった。又一方では、ガルデルの一行の誰かが、ふざけて機内で撃ったのじゃないかとの疑問も出た。しかし、メンドサの頭の弾丸は、弾道からみて機内から撃ったというのは不自然だし、F31の残骸からもピストルは発見されていない。調査の結果でも、弾丸はマニサレス機の副操縦士が撃ったとされる1発しか確認されていなかったのである。今日のように弾丸の条痕照合などない時代なので、結局誰が撃ったのかは断定されないまま今日に至っている。
 
  原因が徹底的に糾明されなかったのは、当時、ドイツの独裁者ヒトラーの覇権主義に根ざす、ドイツの航空会社の南米進出と、ラテン・アメリカの空に自主路線を築づこうとする、南米大陸諸国の自由解放主義が衝突し、パイロット間でも争いが絶えなかった。このような背景から、ドイツ人であるマニサレス機の乗員犯人説を断定した場合に起きる、ドイツとの摩擦を抑えようとしたコロンビア側の政治的力が働いたとの憶測も流れた。

  この他の原因として、重量オーバーではなかったのかとか、公演の舞台に使う重たい緞帳が機内でずれて、機体がバランスを崩したのではないかとか、搭乗前にパイロットやガルデル達が酔っ払っていたためとか言われているが、いずれも墜落の原因にはなっても、F31のパイロトの頭に、ピストルの弾丸が打ち込まれていたことを解明するものではない。結局5人も生存者がいながら、真実は究明されなかったのである。また一つには、疑惑を完全に解明すると、コロンビアとドイツの航空会社同士やパイロット同士の意地の張り合いに、アルゼンチンの国民的英雄であるアイドルが、その争いの巻き添えを食ったとなって、ラテン・アメリカ人の血で結ばれた兄弟国間の友好に、問題が起きる事を恐れられたためとも言われていた。

  ガルデルの遺体を収めてブエノス・アイレスの港に着いた棺は、8頭の黒い馬に引かれ、チャカリータ墓地まで行進した。沿道には3万人もの市民が集まり、馬車の後に加わった市民の列は1キロにも及び、通り過ぎるのに3時間もかかったと言う記録がある。

  カルロス・ガルデルは、その出生からして謎が多く、秘密のベールに包まれており、彼の人生は生まれながらにして、神話的なものを持っていた。ガルデルが人生を閉じたメデジンの悲劇は、その神話のベールを一層厚くしたのである。』

 メデジン空港のある、アンティオキア州という所は、タンゴは我々の州の音楽だなどと言うほど、狂信的タンゴ・フアンの多い所である。ガルデルが、このような所で死んだというのも、神話の導いた運命かもしれない。この空港の事故の詳細については このホームページの 「メデジン空港の事故の謎に迫るに、ガルデルの出生の秘密に関しては、「カルロス・ガルデルの出生の真実」に詳しく記載してある。是非お読み頂きたい。アルゼンチン人の話が長くなってしまったが、コロンビア編はこの辺で終わりにしたい。

                  (コロンビア編終り)               

チリ編へつづく
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