南米諸国の中で、日本と関係の深い国が3つある。一つ目は、ハワイと並び日本人移住者が、世界で一番多いブラジル、二つ目は、日露戦争のとき、当時のハイテク巡洋艦リバダビア、モレーノの2艦 (これが日進、春日の両戦艦で、日本海海戦で東郷元帥率いる連合艦隊の中で大活躍をした)を日本に譲ってくれたことと、戦後の食糧難の時代に、小麦粉やミルクを一早く供給してくれたアルゼンチン、三つ目が、1872年のマリア・ルス号事件以来、日本との間に政治的経済的な数々の出来事を記録してきたペルーである。
その数々の出来事の主なものを簡単に纏めると、次ぎのようなことである。
@横浜に入港したペルーの貨物船から逃げ出した中国人奴隷を保護したため、維新後初の大きな外交問題となった、マリア・ルス号事件(1872年、明治5年)。
Aペルーの銀山を開発しようと、時の特許局長高橋是清(1931年2月26日の、いわゆる2.26事件当時蔵相で、皇道派反乱軍に射殺された)が、カラワクラ鉱山に乗り込んだが、これがとんだペテン話で、すっからかんになった話(1889年、明治22年)。
B佐倉丸に乗った第一回契約移民832人が、カジャオや、リマ南方のカニェーテに上陸したこと(1899年、明治32年)。
C当時ペルーを支配していた40家族と称する白人達が、米国資本と結びついて日系人排斥運動を起こし、600家族以上が迫害を受けたこと(1939年、昭和14年)。
D米国の尻馬に乗って日本に対して国交断絶をしたこと(1942年、昭和17年)。
E天野芳太郎博士がリマに生涯の夢の実現として天野博物館を開設したこと(1964年、昭和39年)。
F日系二世のフジモリ大統領が誕生したこと(1990年、平成2年)。
Gそのフジモリ元大統領を数々の罪名をつけて逮捕し裁判にかけたことなどである(2023現在は釈放)。
1960年代後半あたりから、日本が経済大国になった後は、南米諸国へも多額の有償無償援助を行ってきた。中でもペルーの電気通信のインフラ(基礎的設備)の改善発展には、パラグアイと共に日本(KDDとNTT)が大いに貢献している。これもペルーと日本を結びつける大きな出来事の一つであった。これにはフジモリ氏が大統領になったと言うことが、大きな遠因になっている。今のペルーはフジモリを裁判などに掛けているが、政府を始めとする大勢のペルー人はこうしたことをどう考えているのか知りたいものである。20世紀末のペルーにはテロが横行していたし、インフレにも苦しんでいた。ペルーが安全になり経済発展を遂げたのは、フジモリ氏のお蔭によるところが大きいと思うペルー人も多いのである。日本政府の、同胞であるフジモリ氏に対する援助が殆ど聞かれなかったのが残念でならない。フジモリ氏は収監されていたが、2000年以降(正確な時期は不明)認知症になり現在(2023年現在)は釈放されている。(一説には、フジモリ氏は日系ペルー人から必ずしも一致して支援されていないという)。ペルーはその後も政情不安であり、現在もカスティージョ大統領がメキシコに亡命、副大統領が2023年の選挙を公約しているが依然としてデモが多発不安定である。
書店には旅行記と称する本がたくさんある。南米ものも然りである。しかし、旅行記はあくまでも旅行記であって、一時期の滞在体験談にすぎない。食べ物も、着る物も、住む所も、全てが違う文化と習慣を持つ外国を知るには、やはりその土地に住んで、庶民と接した生活を経験して見ないと分からないことがたくさんある。
南米の国の庶民の街作りは一般的に、一定の長さの道が四方を囲んだ一つのブロックが住居区の単位になっている。道に面した表側が店や入り口で、奥が中庭(パティオ)になっていて、各家の裏口が面しており、洗濯物を干したり、お互いにお喋りしたり、時には楽器を弾いたり、興がのれば踊りだす所でもある。
こうした裏側に入り込んでみて、初めて国民感情とか、庶民の生活習慣などの奥底を知る事が出来る。私はペルーには10回位は行ったが、所詮は旅人であって、表通りしか見ていない。しかし、日本にはペルーについて良く知っている人が多く、沢山の本も出版されている。従って、ペルー編については、今までの話しとは趣を変えて、ポイントを絞って書いてみようと思う。
まずは、ペルーと言えば誰でもが思い浮かべるのが、世界遺産であるインカ帝国の首都だったクスコと周辺遺跡群、そしてマチュピチュ遺跡であろう。私は過去3回マチュピチュに行った事があるが、一番最近でももう20年以上になる。しかし幸いなことに、マチュピチュは南米観光の最大の目玉なので、観光に行ってきたという周囲の人から写真が手に入りやすい。もっとも、世界遺産が20年や30年で様子が変わることがあるはずはなく、何時の写真を見ても全く同じ姿を保っている。しかし、遺跡の中央部の広場に立っている1本の木だけは、遅々とした成長ながら、着実に育っており、遺跡の静かな移り変わりと見守っているように見える。この木については、後で述べることにする。まずは、クスコ周辺から案内しようと思う。
≪クスコとその周辺遺跡≫
<クスコ市内>
クスコは昔インカ帝国の首都だった。クスコの中心は
アルマス広場である。かってのインカ王国を構成していた4つの州から来る動脈道路は、みなこの中央広場を始終点としていた。今は人口30万のペルー第2の都市である。 海抜3360メートルのこの町に着くと、ボリビアのラ・パスほどではないにしても、空気の薄さを感じる。クスコの殆どの家屋は、往昔のインカ人によって建てられた土台の上に造られているが、街並みは、皆スペイン風の家屋に建てかえられた。広場に面して
大聖堂(カテドラル)が聳えている。これは、インカ時代のビラコーチャ神殿の跡に建てられたもので、完成は、1650年頃で、銀300トンを使った祭壇は一見の価値がある。宗教画も400点ほどあり、中でも、マルコス・サパタが書いた"最後の晩餐"が興味をそそる。
屋根には、1659年に付けられた南米最大の鐘があり、その音は40キロ先まで響いたと言われる。この大聖堂の右に同じように広場に面して立つのが、
ラ・コンパーニャ・ヘスス教会である。インカの第11代皇帝ワイナ・カパックの宮殿跡だ。いまの建物は、1650年の大地震の後に立て替えられたものである。 アルマス広場周辺は観光客向けの民芸品店、レストランなどが集まっていて、いつも人通りが絶えない。
市内にはインカ時代のままの通りが多く、中でも、
アツン・ルミジョク通りには、カミソリの刃も入らないと言うほど精緻に積み上げた有名な、 12角の石組みが残されている。この石組みを土台にして建てられたのが、インカ帝国第6代皇帝インカ・ロカの宮殿で、のちの大司教庁である。今では
宗教芸術博物館になっており、その中庭はコロニアル風建築の第一級品で、特に中央にある噴水は、精巧なレリーフで飾られた優美なものである。
<サクサイワマン遺跡>
クスコの東方を守るために、14世紀の第9代皇帝パチャクテックの時代に作られた要塞で、巨石を3層に積み上げ、22個のジグザグを描きながら360メートルも続いている。建築技術はインカらしく、石と石がぴったりと噛み合っており、内側には、高さ5メートル、重さ360トンもある巨石が使われている場所もある。石積みの前の広場では毎年6月24日に、
太陽の祭り"インティ・ライミ"が行われ、インカの儀式がそのまま現代に伝えられている。
<ケンコ遺跡>
サクサイワマンから15分ほど離れた所にある遺跡で、石を削って作られている。インカ帝国の祭礼場だったと言われており、巨大な1枚岩を削ったスクリーンのようなものや、観客席らしきものもある。上の方には、ジグザグの溝が彫られている石があり、生贄にした羊の血を流して、占いをしたと言い伝えられている。
<タンボ・マチャイ遺跡>
聖なる泉と呼ばれている所で、数百年もの間、常に一定量の清水が湧き出している。インカ時代の沐浴場だったようであるが、未だに、何処から水が湧き出してくるのか分かっていない。サイフォンの原理(コーヒーサイフォンのように低い所から上に水を上げる)を応用して、遠くから水を引いていると言うのが有力な説である。清水が湧くので、ここに外敵を監視する見張り所が築かれていた。
<オジャンタイ・タンボ遺跡>
浮き彫りをした石壁を持つ神殿と、墓地の遺跡である。ここの巨石建築は、人間の力の限界を示したとも言える神業のような大工事だった。ここに使われた巨石は、渓谷を流れるマラニョン川の対岸の、かなり遠くから運ばれてきたもので、一つの石を運ぶのに途中で力尽き、今でもそのまま放置された石が残されている。この石を "ピエドラ・カンサーダ(力尽きた石)"と呼ばれている。
(ペルー編 第1部(前編)終わり)