【ペルー (第1部)

空中都市マチュピチュ

  早朝6時にクスコの サン・ペドロ駅を出た観光列車は、2〜3度スイッチバックを繰り返した後、マチュピチュに向かって110キロ余りを緩やかに下って行く。ほぼ中間でウルバンバ川の鉄橋を渡り、左側を流れる岩だらけの急流に沿って走ると、両側が見上げるばかりの断崖に囲まれた渓谷になり、 マチュピチュ駅に着く。かっての手前のアグアス・カリエンテス(熱い水)駅が、現在のマチュピチュ駅になったと聞いたが確実なことは分からない。名前の通り近くには温泉があり、近年は此処のホテルに泊まってアンデスの神秘な夜を過ごし、かってインカの王様も眺めた、南十字星と月を愛でて、翌朝早くにマチュピチュに登るという贅沢なツアーもあるようだ。クスコの駅もマチュピチュ駅も、そして列車も何回か更新され綺麗になった。マチュピチュは世界遺産筆頭なので、ペルーのドル箱観光地であるから当然ではあるが。遺跡は駅のある渓谷からは400メートルも高い場所にあるが、クスコよりは低地なので、クスコで ソロッチェ(高山病)にかかった人でも、此処へ来ると元気になる。 

  マチュピチュとは "老いた山(峰)"という意味で、全体の写真に必ず写る向こう側の高い峰を、対照的にウアイナピチュ "若い山"と呼ぶ。1911年7月24日、 米国人のハイラム・ビンガムが、僅か金貨1枚で、地元のインディヘナに案内させて発見し、世に知らしめてから、110年以上が過ぎた。駅からバスで、登山道(ハイラム・ビンガム・ジグザグ道路)を凡そ400メートル登った所に ホテル・ツリスタスがある。ホテル前の展望台から遺跡への道が始まるが、今では遺跡に入るのは、自動改札式になった。入り口の横の斜面には、ハイラム・ビンガムの功績を称えた プラッカ(銘板)が貼り付けられている。遺跡発見50周年を記念して、1961年に取り付けられたものである。

  遺跡に入ると、まず 段々畑(アンデネス)が目の前に広がり、その脇に家が建っている。往時の人々は、安住の地を求めてか、それとも、宗教的観念のためか、居住地を好んで山の傾斜地の テラスのような場所に定めた。花崗岩の山腹を垂直に切り下げて建てられており、そのような家が今でも完全に残っている。

  農作物のテラスも、階段式に切り開いて造られている。ここでは、じゃがいも、とうもろこし、オユコ、キヌア(粟)の他、野菜や果物が栽培された。これらの土地を パチャママ(母地)と呼び、子々孫々に渡って耕作された。しかし、傾斜地のため耕作にはかなりの肉体的努力が必要であった。 マチュピチュは、此処でなにをしたかということの確証を見つけることは難しい。

  その理由は、記録と言う物が無いからである。ここを 賢者の家だと言っても断定はできない。入り口を入って間もなくに、噴水とか浴場とか言われる泉がある。これを マチュピチュの聖水と呼んでいる。この水は此処から湧き出したのではなく、遠方から水道やトンネルを通して、引いてきたものである。それを熟練した技術で、常時一定の水量が流れるように作られた。 遺跡の一番低い場所に、監獄と呼ばれる所がある。そこには大きな3角形の岩盤があり、その岩の一端が、丁度コンドルの頭のように彫られており、周りには排水用の溝がある。生贄の血が地面に流れ込むようにしたもので、 いけにえの台と呼ばれている。 

  マチュピチュの街並みは、不規則で急坂な土地に建設されている。従って、道も自然に階段式になる。あちこちに長短の階段が多く、その幅もまちまちである。マチュピチュの家は周りの石積みだけが残っていて、屋根はなくなっている。屋根は回りの石の壁に木を渡して梁にし、これに萱のような草を載せて、蔓や獣皮で硬く結び付けてあった。往時の手法で 屋根を復元した家がある。 

  インカ族は、階級官位によって暮陵も様々であった。かなりの地位にあった人か、もしかしたら インカ皇帝の墓ではないかと思われている墓跡がある。半分崩れ落ちた岩石の下からは、沢山の人骨が発掘された。 遺跡の中央部近くに、常時市街を監視していた 高い塔がある。塔は馬蹄形をしていて、高度の技術と精密な設計の元に建てられた。これと同じようなデザインの建築物は、他のインカの遺跡にも見られる。居住区の中に、二つの大きな 摺り臼がある。これをモルテーロと呼んでいる。これは、穀物を摺り潰して粉を作るのに使われたと言われるが、一説によると、非常に高い柱を立てたときの土台石ではないかとも言われている。  

  遺跡の入り口から入って左手の段々畑の上に、巨大で平面な石がある。 葬儀用の石台と伝えられており、死者を埋葬する前に、この石の上で最後の祈りを奉げたのである。この石の後部に大きな輪が付けられているので、一説によると、ここに死骸をくくりつけ、神の鳥と信仰するコンドルに食わせたのであろうとも言われている。この石の表面は入念に作られていて、側面には神官だけが登る段が刻まれている。 三つ窓の宮殿は、外側から見るとかなり際立った印象の建物であるが,一般ルートの内側を歩くと、余り注意を引かない場所にあり、うっかりすると、気がつかずに通りすぎてしまう。これは由緒ある建物で、風変わりである。有史以前の建物なのに、梁の支え台があり、両端では両方の壁を支えるのに、溝に組み込むようになっている。専門家は、この建物は、完成しないまま放置されたのではないかと推測している。 

  インカ族は天文学もしくは天文術に大変長じていた。インティワタナと称する 日時計を使い、月の回転から1年12か月を割り出し、正確に月と太陽の関係を知り、太陽に因む祭典の日を確実に知っていたようである。その上数学にも精通していて、幾何学的図案なども見事に描いていた。2000年になってからのある年の9月、あるビール会社がCMの撮影中に、スタッフがカメラ機材を日時計の角柱の上に倒し、約7センチ壊してしまった。最近、観光客の増加に伴い、遺跡の保存への影響が問題とっており、クスコ市長などが、政府に対策を要望していると言う。 

  マチュピチュの建物を、長方形石建築法と言い、共同住宅建築の場合に用いられる工法である。この窓を 蛇の窓と言って、昔はこの部屋で沢山の蛇を飼いならしていて、占い術や呪詛の場合に使ったようである。階段や窓口の厚さなどにはティワナコ文化が影響していることを多くの学者が指摘している。  

  囚人を繋ぐ石は、犯罪人を括りつけるためのもので、手首を穴に通し結び付けた。 両側に穴の開いた石がある所もあり、両手を広げて結び付けるようになっている。マチュピチュに入って左側の段々畑の裏側を下ると、インカ道があり、クスコや、さらには中央アンデスの、インカの領土へも通じている。道の入り口には関門を示す石柱が立っている。そこから先は、崖淵に沿って人が一人やっと通れるくらいの、細い石積みの道が伸びている。マチュピチュは三方が断崖で、唯一南側だけに山続きの道がある。 断崖に懸けられた橋は、とても用心深く、しかも完全に、石と木材を巧みに組み合わせて作られている。  

  マチュピチュの最も古い部分は2000年以上も前に造られたのではないかとの説もあり、少なくともインカ以前から存在したと考えられている。スペイン人は征服した土地の貴重な建築物や財産を破壊したが、ここは、発見されることなく、現代に残された極めて貴重な遺跡である。

  発見されてからは時間が止まり、今後10年や20年、いや100年200年で変わってしまうことなどは想像できない。ところが、全てが死んでいる遺跡の中で、一つだけ生きている物がある。それが、中央の広場に立っている 一本の名も知らぬ木である(右下、1980年代)。右上写真(2003年頃)と比較して見ると、ゆっくりと成長しているのが分かる。今ではテレビの番組でマチュピチュが写る事は、それほど珍しいことではない。私はその都度この木に注目している。いつ頃植えられたのか知らないが、現代のマチュピチュの様子を知る、ただ一つの証人だからであり、懐かしい木である。寒さと水不足で成長は遅いが、少しづつではあるが、育っているのがお分かり頂けると思う・

  マチュピチュの話の最後に、外観の全体像を紹介して締めくくりとしたい。マチュピチュの写真は、必ずこのような パノラマ展望写真である。しかし、これは、入り口から入って、左側の段々畑の上にある、見晴らし小屋辺りから、北方の ウアイナピチュを眺めて撮ったもので、全体の半分しか写っていない。
ウアイナピチュに登る途中辺りから撮ると全体がよく分かる、コンドルが羽を広げたように見える。私は危険を冒して少しだけ登り撮ったが、写真ファイルの関係でここに掲載できないのが残念であるが、右下に友人が飛行機から撮ったマチュピチュ全景写真を載せてある。以前、日本人がウアイナピチュに登ったが、転落したと言う話を聞いた事がある。ウアイナピチュに登るのは大変危険だ。写真でも分かるように、ウアイナピチュの頂上近くにも 段々畑があるので、インカ族がそこにも住んでいたことの証拠である。今でも階段はあるが頂上まで登るのはとても無理な話だ

 右下の飛行機から撮ったマチュピチュへ登山道 ハイラム・ビンガム・ジグザグ道路の写真の右下隅が、ウアイナピチュの頂上である。私も始めて行った時(1977年)に、クスコからリマへの飛行機が、サービスで遺跡の上空を飛んでくれたことがあり、一斉に左側の窓に群がった乗客の頭越しに十数秒間、このような光景を見たことを覚えている。まさに、"空中都市"という名前にふさわしい絶景であった。このジグザグ道路の上の方に、現在ではクスコへ通じるトレイル道ができていて、健脚家が歩いてマチュピチュチへ登ることができる。バスが登山道を下る時、原住民の男の子が、この斜面を垂直に駆け下りて先回りし、突然バスの前に立ち塞がって、観光客を驚かせ、チップをせがむ光景もここならではである。 

  ツーリスタス・ホテル前の展望台から下の渓谷を眺めると、 ウルバンバ川が白い帯のように流れている。この川はアマゾン川の源流の一つで、激流は左右に屈折を繰り返し、滝を作りながら、北へ流れていく。雨季の1月から3月頃にかけては、いろいろな蘭やベゴニアなどの、この地でなくては見られない珍草奇花が咲き競い、パラダイスのような光景が展開される。

  雨季のマチュピチュは、晴天の日が少ないので、運が悪いと折角行っても、青い空に、遺跡を飾るアクセントのような雲が浮かぶ光景を撮ることはできない。スペイン軍に追われ、此処を捨てたインカ帝国は、更に奥地へと逃げ延びていったと言うのが定説であるが、果たして何処へ行ったのだろうか。とんでもない所に、まだ発見されない遺跡が眠っているのかもしれない。
                              
     (ペルー編 第1部<後編>終わり)

ペルー編 第2部へつづく

マチュピチュの項に追加
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2001年3月8日の日経新聞はこう伝えている。「東大防災研究所の佐々木博士が明らかにしてところによると、マチュピチュ遺跡の西側の斜面(ウアイナピチュに向かって左側)の一部が、1か月に1センチずつの速度で滑り落ちている。この速度は非常に早いスピードで、落盤落石の前兆と見られ、遺跡を全壊するだけの地滑りが起きる可能性がある。これからは、いつ地滑りが起きるのかを調べるのが課題であり、地滑りを防止し、 遺跡を保存する方法についても調査する」。
 A 2009年から2010年にかけて異常気象のため南米南部は長期間の大雨に襲われた。このためマチュピチュ周辺でも豪雨が続き、2010年1月26日、クスコとの中間地点で土石流が起こり鉄道が寸断された。このため大勢の観光客がマチュピチュの麓の町や手前のアグアスカリエンテスに足止めされた。取り残された観光客は約50人の日本人を含むおよそ2000人で、軍隊のヘリコプターにより順次救出された。その後2月8日になりペルー政府はマピチュへの立ち入りを禁止したが、鉄道の回復に伴い3月29日から観光を再開した。
 
B2022年秋、ペルー大統領の逮捕事件のため、大衆が反対行動を起こし全国的に社会不安が起きたが、その際、マチュピチュ鉄道も運行を止めたため、観光客が数日マチュピチュ、ホテルに足止めされた。

            ≪本文中に関係する写真≫