【ペルー 
(第2部)


民芸品とナスカ地上絵

 この物語を書き出してから、幾度か民芸品の種類や数が多いのは、ボリビアとペルーだと言ってきた。ペルーは本当に民芸品、手工芸品の種類が多く、また、金銀をふんだんに使った装飾品も沢山あり、それを売っている店も驚くほど多い。ホテル内のアーケードや繁華街は元より、路上にも沢山店を広げているし、クスコなどへ行くと、あちこちの遺跡の周囲の、寒々とした泥道の片隅にしゃがみ込んで、布を織ったり、小さな物を売っている。 以前はリマのホルヘ・チャベス国際空港のトランシット・ルームにまで、みすぼらしい服装の子供達が入り込んできて、両手に銀か銅製らしき飾り物などを持って、乗り継ぎ便を待つ旅行者に、しつこく付き纏っていた。しかし、今は空港内には入れなくなった。空港内からは彼らだけでなく、到着する客を迎える旅行者のガイドまでも締め出されてしまった。ガイド達は、空港から道を隔てた向こう側で、プラカードを高く掲げて客が声をかけてくるのを待っているのである。現在はどうなっているか分からない。

  本編で紹介するものは、私のコレクションの極く一部の、ありきたりで、何処にでも売っている民芸品だが、私には皆思い出のこもっているばかりである。一つ一つを説明するのは、冗長になるので止めて、写真に合わせて思いつくままのことを書いてみようと思う。

【リャーマとその仲間の話】
  スペイン語のアルファベットには、"LL"で始まる単語がある。例えば、llanura(平原)、llorar (泣く)、lluvia(雨)などである。llの発音は国によって、あるいは、同じ国内でも人によって異なっていて、llanuraを例にとると、(カタカナでは正確に書けないが)イャヌーラ、リャヌーラ、ジャヌーラなどがある。どれが正しとか間違っているとかと言うことはない。どの発音でも通じるが、私は、ジャヌーラと発音する。

  こうゆう言い方を"ジャイズム"と言う。スペイン料理のpaellaを日本では、パエーリャやパエージャでなく、パエリアと言うのがどうも奇異に感じらるし、
有名な磁器もリヤドロではなく、ジャドロである。
 ところが、アンデス高原に住む駱駝科の動物は、llamaと書いても"リャーマ"以外の発音は正しくないと言われたことがある。リャーマは神聖な動物なので呼称を統一したのかもしれない。日本では、たまに"ヤマ"と書いてあるものを見るが、これなどはもってのほかであろう。

  ペルーやボリビアの原住民にとって、リャーマは自動車であり、食料であり、また衣類、衣類の原料、さらに暖房具として、厳しい生活環境に不可欠な万能動物である。時には神様の生贄にもされる。アンデスの高原とか、此処に住むインディヘナの写真には必ず引き合いにされるのが、このリャーマで、日本の富士山、米国の自由の女神、パリのエッフェル塔などと同様、"アンデスにはリャーマ"、これがお定まりの構図なのである。 

  リャーマと同じ駱駝科の仲間には、体の大きい順にリャーマ、アルパカ、ビクーニャ、グアナコの4種類がいるが、家畜化されたのは、リャーマとアルパカだけだ。リャーマは寒さや傾斜地に強く、高地には最適の動物だが、性質はかなり臆病で我がままだ。重い荷物は運ばないし、気に入らないと唾を吐きつける。警戒心が高まったときなどは耳が後に水平になる。馬牛などよりよほど気難しい動物である。
  アルパカは、どんな動物かを知らなくても、その毛を使ったコート、セータやカーディガンを知らない人はいないであろう。しかし、寒冷地に強いためその毛は脂肪分を沢山含んでいるので、染色が難しいとかで、以前は、ねずみ色、黒、或いは茶系などの色しかなかった。私があちこちで買った品物も、皆こんな色である。しかし、その後染色技術が進み、アルパカ製品も綺麗な色の物が出回るようになった。こんなアルパカでも、1997年8月に、ペルー南部のアプリマック地方を襲った寒波には勝てず、たった1週間で2500匹のアルパカが死んだと報道された。肉や毛は雪に埋もれて回収できず大損害だったようだ。

  駱駝科の話をもう少ししよう。家畜化されずに依然として野生で暮らしているビクーニャは標高3500メートル以上の乾燥地帯に住んでいる。赤血球が人間の3倍近くあり、高地暮らしに適している。毛は赤褐色で、胸のところに白か黄色い房毛がついている。毛は質が良く最高級の毛織物が作られるため乱獲が進み、一時は数千頭にまで減ってしまった。そこで、1970年代から保護策がとられ、その数は次第に増えてきた。今では絶滅の心配はなくなった。
  一番小さいのがグアナコで、体長は2〜2.5メートル位、主にアルゼンチンのパタゴニア地方の荒れた平原に野生しており、細い足で走るのがとても速い。

【民芸品で思いつくままに】
  この人形の農夫が担いでいる袋には、恐らく、じゃが芋が入っているのだろう。じゃが芋は、間違いなくペルーが原産地である。この他に、アンデス山地が原産と言われている農作物は、玉蜀黍、トマト、ピーマン、玉葱などなど色々ある。アンデスの野生じゃが芋は、1500種もあると言われている。
じゃが芋には、五画の星形をして、白や薄いピンク色から紫色の花が咲く。世界中に出回っているものは、改良を重ねるうちに花が咲かなくなったのである。クスコのインディヘナの市場で売られているじゃが芋には、色々な色や形が並んでいる。赤いリンゴのようなものや、紫色、黒紫色のもの、中が橙色をしたものまである。黒いのはチューニョと呼ばれる、乾燥させた保存用じゃが芋である。フランス語で"ポンム・ド・テール(大地のリンゴ)"と呼ばれるのもうなずける。じゃが芋の収穫は5月が最盛期である。
  コロンブスが南米から欧州に始めてじゃが芋を持ち帰ったときは、奇妙な形から、ハンセン病の媒介物じゃないかと嫌われたらしいが、栽培に手がかからず、小麦よりも生産性が良いため、次第に定着するようになっていった。食料不足に悩む北朝鮮が、金正日の掛け声でじゃが芋の増産にはげんでいるそうだが、彼らは原産地がどこか知っているのだろうか。

 玉蜀黍はメキシコが原産とか、アンデスが発祥地とか言われている。私にとってはどちらでもよいが、ペルーの玉蜀黍は種類が多い。聞いたところでは、20種類くらいあるそうだ。大きなものは馬の歯大のものから、大豆ほどのものまであり、色も黒いのから、赤、黄色、白、ピンクと、じゃが芋同様様々である。しかし、どれも味は大味で、日本で食べるような甘味は余りない。
  ペルー独特の地酒チッチャは、元々はインディヘナが玉蜀黍から造った酒で、日本の昔の伝承話にでてくる"口醸酒(くちかみざけ)の一種である。口の中で噛んで唾液と混ぜ合わせだものを醗酵させて造る。勿論今は近代的製法で造られているが、色は茶色っぽく、味は酸っぱくて、あまり美味しい酒ではなく、それに発祥を考えるとあまり飲みたいとは思わない。アンデス原産の花で思い出したが、日本でも一般化している
ベゴニア"もペルーが原産地である。この花を、ペコニアとかベコニアとかいう人がいるが、これは間違いである。  

   インディヘナの服装をした人達は、リマ市内では余り見かけることはできないが、クスコを始め高地では、当たり前の服装である。男はシャツにジーパンが殆どだが、女性は老いも若きも、カラフルなポンチョを纏い、10数枚のスカートを重ねて穿いている。汚れたり、磨り減ったりしたら、それを脱いで一番上に、新しいのを重ねる。風呂には入らない。背中に背負っている袋には、物々交換用の食料や、時には赤ん坊が入っている。寒冷地であっても靴下は履かず、素足にリャーマの革で作ったサンダルを履いて何十キロも歩く。

  男達は農作業の合間や、ちょっとした祝い事があると、村の広場や高原の吹きさらしの野原で、手製の楽器を鳴らして、伝承的なメロディを奏でる。いわゆるフォルクローレである。もの悲しさを感じさせるが、リズムもメロディも皆同じよう聞こえてならない。彼らの楽器は、チャランゴの他、葦や竹で作ったケーナ、サンポーニャ、木製のアンタラ、土を焼いたオカリナなどの笛、それに太鼓などで、演奏しながら丸く輪になって、回りながら歌を続ける。演奏をするグループには、どうゆうわけか女がいない。

  ペルーのインディヘナが着ているポンチョは、メキシコのものと同様に、カラフルなものが多い。染料は何なのか知らないが、原色を見事に染め上げている。素材の生地は、羊やアルパカから毛を刈り、紡いで、染めて織り上げるまで、全て手作業である。このような生地からは、他にも上着、スカート、ズボン、帽子、袋物、紐など色々な物が作られている。勿論土産物用もたくさんある。

  ツミ(トゥミ)は、半月形の刃に直角に細長い柄を付けたナイフで、インカ以前から使われていた。日本の三味線のバチのような形をしたものもあった。 いずれも、切るよりは刻むのが有効である。実用品は普通、銅か青銅でできており、用途は日常の雑用から、炊事用、外科手術用まで多岐にわたった。また、戦士の重要な武器でもあった。 民芸品やアクセサリー類には、ツミをデザインしたものが多彩である。

  例えば、写真のような毛織の他、銅や銀製の壁掛けやクッションカバーなどをを始め、ベッドカバー、衣類の模様、各種の革製品の押し型模様、金銀製の指輪、腕輪、ブローチ、ペンダント、イヤリングなどの装飾品の模様まで、ツミはペルーを象徴する独特のデザインである。

  クスコから車で1時間ほど行くとピサック村がある。日程に余裕があれば、そして、うまく曜日があえば、是非行って見たい所である。ここの日曜市は、周辺のインディヘナの日常生活に必要な品物の物々交換場であるが、観光客にとっては、集まる女性達の民族衣装を見るのが楽しいし、陶器や民芸品の掘り出し物に出会うこともある。また、足を伸ばせば丘の上の遺跡も見物できる。

【ナスカの地上絵】
  地球上には、古代人が残した文化的遺産で、それが何の目的で、どのようにして作られたかが、謎に包まれたままのものがたくさんある。ナスカの地上絵もその一つである。リマから南へ450キロの太平洋岸のナスカ川流域に広がる、長さ40キロ、幅20キロの台地上の砂漠に描かれた、とてつもなく大きな地上絵がそれである。羽子板状の細長い台形の先端から伸びる直線が目立つ。中には2キロ以上の直線もあり、歪みもなく安定している。

  これらの直線が交差する中に動物や鳥、渦巻きなどの絵が点在する。全てが交差部分のない一筆書きである。鳥には、ハチドリ、コンドル、ペリカン、軍艦鳥、オウムなどがある。ハチドリの一つは全長約260メートルもある。動物は猿、蜥蜴、蜘蛛、鯨などで、猿は80メートルもある。300〜400メートル上空からやっと一つ一つの全容がつかめるほどだ。
  絵の線は、幅60センチほどの地表石を取り除き、深さ20センチほど下にある白い土を露出させたものである。創られた時期は動物のモチーフから、ナスカ文明(紀元200〜800年)頃と推定されている。このような巨大な地上絵を書いた目的や、書いた方法は分かっていない。この地上絵は、1939年、米国の地理学者ポール・コソック氏が発見したもので、その後、1946年にコソックに勧められた、ドイツの数学者マリア・ライヘ女史が、この地上絵に魅せられてナスカに住み着き研究を重ねた。
  この地上絵の意味について、発見者コソックやライヘ女史らは天文学図と言う説を立てた。一方、日本人で、ペルーの遺跡発掘に功績を残した天野芳太郎博士は、上空からでないと見えないことから、その当時神聖視されていた鳥に見せるためだったとの説を唱えた。
  しかし、計測機械も無かった時代にどのようにして書いたかは説明されていない。そのため宇宙人が作成した基地説まで飛び出すのである。これだけの規模のものを、上空からの指図なしではできないので、宇宙人にしか出来ないという空想である。しかし、実際にセスナ機で飛んで見ると、宇宙人説を非科学的だと一笑にできない程謎は大きい。

  ライヘ女史は1998年6月8日、胃がんのためリマの病院で亡くなった。95歳であった。この遺跡もゲリラが暴れまわっていた頃は観光客も余り訪れることがなかったのに、フジモリ大統領になり、ゲリラが掃討された結果、再び観光の目玉となり、ナスカ地方は活気を取り戻した。しかし、ペルー陸軍の演習場になったり、パンアメリカン・ハイウエーが一部を削り取ったりで、大分痛んできているが、地上絵を保存するためのペルー政府の援助は、財政再建を理由に殆どなく、マリア・ライヘ女史の存命中は、ドイツ政府からの年金と著書の印税を当てていたと言う話である。
 21世紀になってからは、日本の山形大学ナスカ研究所が世界で唯一の保存研究機関となり、2012年には現地に研究センターを開設している。2022年後半には、空中から新たに数百の地上絵を発見した。

  ナスカ地上絵観光の基地になっている、イカの町のホテルの中庭には、アルゼンチンの国花でもあるセーボが、燃えるような赤い花を満開に咲かせ、その下にペルーの代表鳥コンドルがいる。
  コンドルは、世界的なフォルクローレ"コンドルは飛んで行く(エル・コンドル・パサ)"で、その名前を知らない人は少ないだろう。この巨鳥は、空を飛ぶ事のできる陸鳥では最大で、翼を広げると3メートルを超し、体重は10数キロもある。太陽の熱で出来る高山の上昇気流を利用し、4500メートルもの高空を、時速60キロ前後で飛びながら、腐肉や子羊、子鹿などを襲う。繁殖率が低く1年おきに1羽の雛を孵すだけだが、かなりの長命で数十年も生きる。精悍な顔の下には白い襟巻きをつけ、王者の風格を漂わせているが、今ではペルー政府の保護鳥になっており、ナスカの地上絵の中にも、永久にその姿を残している。      
                            (ペルー編 第2部 終わり)           


本文に出てくるナスカの地上絵 ペルー編第3部へつづく