【ペルー (第3部)】
博物館巡り、日本人の歴史
万年雪を頂くアンデスの山々、日本人好みのフォルクローレ、カラフルな民族衣装、数々の著名な遺跡などなど、南米のイメージの全てを持つのがペルーである。観光で行くには魅力たっぷりの国だ。しかしこんなペルーも、初めてリマに着いた時の印象を、1958年当時の有名なジャーナリス、大宅壮一(大宅瑛子の父親)は"骸骨のすすり泣きが聞こえそうな国だ"
と言った。
4月ごろから8月頃までの冬は、 ガルーア(霧雨、海霧)が立ち込め、灰色の空気に覆われるからである。反対に9月から3月頃までは雨が降らない。訪れる時期によって印象が全く変わるのがペルーである。南米大陸の太平洋岸は、東からの湿った空気がアンデス山脈に遮られて1年中雨らしい雨が降らないので、ペルーの北部からチリ北部までは砂漠だらけである。雨が降らないので、リマには傘屋がない。日本に始めてきた友人に最初に傘を買う事を勧め、折り畳み傘の使い方を教えたことを思い出す。
1532年にピサロがやってきて、インカ帝国を滅ぼし、リマに首都を定めてから数百年の歴史を持つこの街には、多くの教会がある他、博物館もたくさんある。その中で、日本人観光客がよく行くのが
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@アンデスへの夢とロマンに生きた天野芳太郎氏が、チャンカイ渓谷で発掘した土器、織物を集めた「天野博物館」、現在は天野織物博物館。
Aインカ王家の黄金文化を集めた 「黄金博物館」
Bインカ族の性行為を通して、おおらかな人間性を率直に現した陶器の人形を多数集めた「ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館」
である。
本編では、このうち、黄金博物館と、ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館の収蔵品と、天野博物館の一部を紹介しながら、ペルー編冒頭で述べた、ペルーと日本との関わりの中で過去の重要な出来事について書いてみようと思う。なお、ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館のエロチックな人形を収蔵した別館は、未成年者の入場は禁止されている。天野博物館の残りについては、最終編で紹介する
≪マリア・ルス号事件≫
この事件は、今から凡そ140年前、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク"が一人の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号"船内の窮状を訴えた。船の中の待遇は動物同然で、移民を斡旋した仲介人が言っていた待遇とは全く違っていたのである。この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民の間には虚無感があふれ、農村は疲弊しきっていた。
一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を至上命令とした、ラモン・カスティージャ大統領のもと、金銀の採掘や特産のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望しマカオに来ていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていたのである。 マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置として、まだ国交の無い日本に避難したのである。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が英国軍艦に救助されたのである。
英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けて政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長のリカルド・ヘレイロを裁判にかけた。 まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時として驚きの目で見られ、大江卓の人権擁護思想の下に進められた裁判は、9月13日に結審し清国人は全て開放されて本国へ送還された。
この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された。この事件が後の、日本人移民が実現する伏線になっている。
≪悲劇の元蔵相、高橋是清の足跡≫
岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、日本陸軍のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった)によって、反乱軍に自宅で射殺された。この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。
1889年(明治22年)、当時、特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルーのカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。そこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。
昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は、散々な苦労をした。是清の従者が馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落するなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る是清は、悠揚せまらず、"アンデスも転びてみれば低きもの"と人ごとのように一句を吟じたりしたと言う。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年も掘り尽くされた廃坑同然であった。
特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(今なら数十億円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は、惨憺たる失敗であった。一行は千々の思いを砕きながら帰国した。日本の政治史に残るような大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。是清は家屋敷を売り払って借金を返したと言う話である。陽気で人が良いなどと言われるラテンアメリカ人の、怖い一面を現した事件の一つである。
≪日本人移民の入植と、悲惨なペルー下り≫
1800年代後半の日本は、明治維新後の国内の統合と再建が始まり、変化の激しい時代であった。首都が東京に移り、封建機構から脱却して政治構造が激変した。また、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との通商関係が緊密になっていった。その一方で、軍国主義による領土拡張政策が推し進められ、軍隊が増強された。工業の発展と軍隊の増強は、必然的に人口の増加をもたらす結果となった。
1872年の人口3450万人が50年後の1920年には、1.6倍近い5460万人に達した。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から溢れ出した余剰人口は、代替労働を求めて都会に集まってきた。しかし、これらの自由労働者を救済するための措置は十分ではなく、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。行き場の無い人々は、食うための手段を自分達で解決するしか方法がなかったのである。特に農村の二、三男達は相続できる土地がないため悲惨であった。これらの解決方法として考え出されたのが外国への移民であった。
一方、19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(ボリビア編参照)の荒廃から徐々に立ち直り始め、工場設備は近代化され、生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖の価格上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力不足が決定的になってきた。
それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄したのである。
この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴収したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるとか、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。 こうして集められた第一回目の移民790人が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。
これに対し農場主達は、武装ガードマンを派遣するなどで対抗した。中にはピストルで殺された移民もいた。しかし、農場主達は中国人との問題を経験していたので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられので、1900年、日本政府の調査団がペルーを訪れ、全員を送還しよとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束したため、送還は実現しなかった。
それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデスを越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスを超え、ボリビアやアルゼンチンへ逃げた人達がいる。しかし、過酷な山脈を抜けることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが、移民哀史で言う「ペルー下り」、或いは「ペルー流れ」である。
しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資本を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。
森岡移民会社が行った渡航は、1899年から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名となっている。
しかし、このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では5万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎えた。
≪日系人排斥運動と国交断絶≫
フジモリ大統領の誕生を頂点に、ラテン・アメリカで最も親日国になったペルーとの歴史の中でも、1940年(昭和15年)5月13日に起きた排日暴動は、ペルーと日本との関係の中で、最も忌わしい出来事の一つである。民芸品の話とは全く関係ない話だが、ペルーを語る機会に、その真相を書いてみようと思う。
1930年代のペルーは、米国資本と結びついた「40家族」と呼ばれた白人達が支配していた。彼らは日本人の経済的進出を嫌い、例えば、日本人がスパイを組織したとか、秘密軍事基地を作ったとか、武器弾薬を陸揚げしたとか、まことしやかなデマを流して、日系人に嫌がらせをした。
ペルーには他にも外国の移民がいたのに、特に日系人が狙われたのは、日米関係の悪化に伴う米国の反日ムード作りが背景にあったのである。また、ペルー社会には、日系人がペルーに移住してから、まだ40年も経っていない新参者にもかかわらず、急速に成長した妬みもあった。その上、日系人の商売が既存のペルー人の小規模な店との摩擦を生み、ペルー人側が面白く思っていないと言う情勢に、米国が目をつけたとも言われている。このように1930年代の末期には、国内に多くの不安定要素があり、いつそれが爆発してもおかしくない状況だったのである。1940年(昭和15年)5月13日に起こったリマの排日暴動は、このような社会的背景の下に起きた事件である。しかし、そのきっかけは、日本人理髪業組合内部の、同胞相食む醜い抗争が原因であった。
当時リマでは理髪店の数が飽和状況に達し、このままでは共倒れになることを恐れたH組合長が、市役所の役人を抱きこみ、傲慢にも独断で自分の商売敵22軒に閉店命令を出した。ところが、閉店を強制された側は、官憲にコネのあるF氏を立てて、市当局にこの命令を撤回させ、争いは法廷に持ち込まれた。H組合長は領事館を抱きこみ、日系新聞もH組合長側につき、F氏を攻撃した。
事件が大きくなったのに驚いた領事館は、F氏に日本への帰国を命じた。ペルー国籍をもっているF氏を強制的に送還することは違法であったが、中央日本人会も領事館の決定を支持した。領事館はF氏を強制送還するため逮捕しようとF氏の家に侵入した。この時たまたま同家にいたペルー人のマルタ・アコスタと言う女性が巻き込まれ、死亡してしまった。悪い事に、この女性の親戚に地元新聞の社長がいたため、新聞は連日、日本人ボイコットを煽動する悪質な排日記事を書きたてた。険悪なムードが市中に流れ、ついに破局がやってきた。
市内のガダルーペ中学の学生が、排日スローガンを書いたプラカードを手にして市中を行進し、これに野次馬が加わり、日本人商店に投石を始めた。暴動はやがてリマ市内から隣接の港町カジャオに飛び火し、さらに地方の都市へも波及した。しかし、不可解にも警察は介入せず、制止さえもしなかった。暴動は5月13日から翌14日の夜まで続いた。この結果、日系人620家族が被害を受け、被害総額は当時の金で600万ドルに達した。このうちの54家族316人が再起不能の被害を受け、1940年7月16日、日本郵船の太平洋丸で帰国を余儀なくされたのである。
悪夢のような暴動は2日間で終わったが、日本人達は暫くは、このショックから立ち直る事が出来なかった。ここで不思議なのが中国人の動きであった。今までは暴動が起きれば中国人の店も被害を受けていたのに、今回は店先に青天白日旗(今の台湾の国旗)を掲げ、高見の見物をしていたのである。このようなことから、当時、日本軍が中国大陸への侵略を続けていたために、中国人が煽動に1枚噛んでいたのではないかとの憶測も流れた。
ところが、事件から11日目の5月24日、リマ市一帯は大地震に襲われた。アドベ造りの家は大被害を受け、大勢の死傷者がでた。誰言うともなく、「罪の無い日系人をいじめた天罰だ」との噂が流れ、科学的知識に乏しい妄信的カトリック教徒だった一般大衆は、改悛の情を顕わにした。地面が揺れ戸外に飛び出した人々の中には、「私は日本人に何にも悪いことはしませんでした」と、手を合わせ、膝まづいて天に絶叫する女達が沢山いたと言うことである。
地震が収まってから略奪した品物を日本人の家に返しに行ったペルー人もいたと言われている。この地震は全くの偶然とは言え、高ぶっていたペルー人の反日感情を抑える上で何よりの役割を果たした。まさしく神風だった。この暴動は一応収まりはしたが、日米関係の悪化と共に、時代は確実に破局に向かって進んで行っのである。
ペルーとの国交は、第二次世界大戦でペルーが連合軍に組し、日本との国交断絶を声明した1942年(昭和17年)1月24日に途絶えた。日系人は財産を没収され、米国に強制的に追放されたり、日本に強制送還されたりした。戦争終結後も再移住を認められない人達も大勢いた。 このように一時期、ペルーは反日国であり、”日本人移住者の受難の時代”があったのである。それから10年後の1952年(昭和27年)6月17日、日本とペルーとの国交は再開された。
≪天野芳太郎氏の足跡と博物館≫
天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため強制送還された。
しかし、ラテン・アメリカへの夢と情熱は絶ちがたく、持ち前の執念で、戦後の1951年(昭和26年)、密出国のような形で出日本を離れた。ところが、乗船したスエーデンの貨物船クリスターサーレン号(4900トン)が太平洋上で暴風雨に遭遇し、船体は真っ二つに割れて沈没、13時間の漂流の末救助され、日本へ送還された。その後1か月足らずの後に再び日本脱出を果たし、米国、パナマを経て、運良くペルーに着いた。勝手知ったペルーに渡ってからは、魚粉、魚網などの製造事業を行いながら、青春時代からの夢である、古代アンデス考古学研究への挑戦が始まった。
戦前からのアンデス遍歴で、知識は十分に持っていた。未発掘の遺跡を求めて、リマ北方200キロのチャンカイ渓谷にとどまり、いつ果てるともなき発掘作業が続けられた。それから20数年間の地道な遺跡発掘の労苦が実り、2300余点の貴重な宝物を収集し、その成果は世界に知れ渡った。
天野氏自身はその過去について多くを語らないが、戦前戦後を通して、人には言えない労苦を重ねてきた財産を、1963年に念願の天野博物館を建設する際、殆ど使い果たしたと言われる。各国からペルーに来る皇族、政府要人の殆どが、この博物館を見学に訪れると言う。日本で開かれたいくつかのインカ展にも出品した。米国や欧州、中南米諸国などの展覧会にも毎年のように出品を求められていた。
ペルーの古代文明研究者には全ての収蔵品が開放されており、写真撮影や、出版にも無料で便宜が供与されている。チャンカイ文化の"つづれ織り"など7点が、ペルーの切手図案に採用されている。日本人を始め世界の50余か国から同館を訪れる観光客は、年間約6000人に上る。入場は申し込み制による無料であった。
天野氏は、 「ペルーの民族的遺産を、外国人の私が有料で公開することに抵抗を感じる。文化不在といわれる日本へのイメージを少しでも和らげるために無料に徹したい。研究者が誰でも展示品を手にとって見られるように、私の独創的な配列をしている。一般公開にすると、館員や警備員の増員などの問題が出てくる」と語っていた。
しかし博物館の維持のために、日本の文化交流調査団からの「募金箱」を設置したらとの提言を受け、入館者から募金の形で寄付を受けていたが、人件費を含む運営費は年間凡そ1600万円かかると言われていたが、2000年に入り入館者数も回復し、どうやら運営の目処がついたと伝えられていた。その後改装を行い2015年には増築を行い、名称も「天野織物博物館」と改称した。さらに収蔵品を充実させて有料にした。入場料は10ドルである。
ペルー編第3部では少し視点を変えて、過去の日本との関係について書いてみたが、雑然と保存してあった、いろいろな資料を見なければならないことが多く、巧く纏められたか不安である。日本にはペルーを知る人が多いので、ご指摘を頂ければ幸いである。
(ペルー編 第3部 終わり)
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