【ペルー (第4部)】 天野博物館写真つづき、ペルー海岸地方音楽、地震の話 ≪バルス・ペルアーノ≫ 一般にペルー音楽と言うと、日本では 「コンドルは飛んでいく(El Co'ndor pasa)」が思い出される。しかし、 ![]() 16世紀の始めまで、北はコロンビアの南部から東はボリビア、アルゼンチンの北西部、南はチリの北部までを、その版図に収めていたインカ帝国は、 ![]() そのため、この民族に生まれたアンデス・フォルクローレは、ペルーの歌とかボリビアの歌とか言うよりは、インディヘナの歌なのである。「コンドルは飛んで行く」は、このアンデス・フォルクローレの一つなので、ペルー人はペルーの歌だと言い、ボリビア人はボリビアの歌と言う。従って、「コンドルは飛んで行く」は、本当はペルー音楽の4分の1の代表と言うべきかもしれない。 海岸地方のフォルクローレとは、 ![]() ![]() 『バルス・ペルアーノの起源はウインナ・ワルツである。スペイン人が南米を征服した後、今のボゴタ、ブエノスアイレスと共に、リマに副王府を設けたので、この地にヨーロッパから多数の役人が集まるようになり、彼らが持ってきたワルツは、 ![]() 従って、 ![]() ![]() 昔から、アルゼンチン・タンゴを始めラテン音楽に人並みの愛着を持ってきた私にとって、バルス・ペルアーノに出会ったときには、世界にこんなにも心に焼き付く音楽があったのか、 ![]() かって、私が現役サラリーマンでいた頃、西新宿の会社のビルの31階にFM東京があった。(現在は半蔵門にある) もう50年くらい前になるが、地下の社員食堂でK さんと言うプロデューサーと知り合い、彼の受け持ちの昼の番組の中で、バルス・ペルアーノを1曲づつ2週放送してもらったことがある。 さて、反響はいかにと胸をときめかせて期待していたのだが、僅かに放送局内の人が、「聞き慣れない音楽だ、リズムは良いがなかり泥臭い。歌詞はスペイン語のようだが、何処の国かな」と言った人が一人いただけで、 ![]() 日本にはラテン音楽フアンが大勢いる。勿論ペルー音楽が大好きな人も多い。しかし、ペルー音楽と言うと、大方がアンデス・フォルクローレと思っているのではないかと思う。しかし、バルス・ペルアーノには、民衆の哀歓と、日々の生活の中での喜怒哀楽の感情が、 ![]() バルス・ペルアーノを歌った歌手の中でも代表的な歌手として知られているのが、ルチャ・レジェスである。彼女は、 ラ・モレーナ・デ・オーロ・デル・ペルー(ペルーの黄金の褐色人)と言われた歌手である。肌も髪も濃い褐色で、でっぷりと肥った堂々たる体型であった。肥っていたため持病の心臓病に悩まされ、 ![]() しかし、彼女は、海岸地方のフォルクローレの代表的歌手の一人だったので、ポルカ、マリネラ、ウアイノ、フェステッホなど、どんなジャンルの歌もこなしたが、やはりバルスが圧倒的に多い。ギターとピアノによるメランコリックなメロディーの伴奏で歌うのだが、その分厚い唇から流れる歌詞は極めて明瞭で、声は体つきに似合わぬ甘い響きを持っていた。 ![]() 彼女のレパートリーの中でも、死期を悟った病院のベッドの上で歌ったと言われる、 「ミ・ウルティマ・カンシオン(私の最後の歌)」が出色である。フアンに感謝しつつ、涙がこぼれるのを謝りながら、涙声で歌うラストが印象的だ。このレコードは彼女が死んだ後発売されたため、一層の感動を呼んだと言うことである。 ![]() ルチャ・レジェス亡き後も1970年代は、 ![]() ![]() しかし、その後、"失われた80年代"と言わしめた、ラテン・アメリカ全域を襲った、凄まじい経済混乱の嵐は、ペルーにも容赦なく押し寄せ、一時は年間1万パーセントを越えるハイパー・インフレなどもあって、市民生活は沈滞した。こうしたことから、リマ市内の下町で繁昌した、パリサーダとかハロン・デル・オーロなどのペーニャ(ライブ・ハウス)も相次いで姿を消し、若手や新人の育つ環境がなくなってしまったり、若者の嗜好がロックなどへ変わったりしたことなどで、バルスは以前のような人気を失ってしまった。 近年は、友人を通して手 ![]() ≪地震国ペルー≫ ![]() 中米から南米大陸の太平洋岸を走る地震帯は、世界でも有数のもので、さらに、イースター島の北西の海底には1300余りの火山が群がっている。1960年から2007年の8月までで、30回近い大きな地震を記録している。 1960年のチリ地震では、太平洋を渡った大津波が、日本の三陸地方に被害をもたらした。この地震の死者は5900人、マグニチュード9.5で、世界の地震史上最大と言われたが、日本の観測では8.3であった。つい最近でも、 2001年1月13日と2月にもエル・サルバドルで大きな地震が起きたし、2003年1月にはメキシコの太平洋岸7.8の大地震が起きている。 ![]() ![]() この日はたまたま、1968年の軍事革命の6周年記念日だったが、この地震のため式典は中止された。 リマ市の古い住宅はアドベ(日干し煉瓦)造りが多く、鉄筋が入っていないため地震には殆ど抵抗できず、倒壊家屋がたくさんでた。また、リマから南へ30キロ離れた海岸の砂漠にある、有名なパチャカマック遺跡も、 ![]() 1981年には東部と中部で2回も地震が起きた。実は、この前年に米国の地震専門学者が「1981年の8月頃、ペルー沖でマグニチュード9.9の大地震が発生する」との予知を発表したため、ペルー海岸地方やチリなどでは一種のパニック状態となり、ペルー政府も米国に確認を求めた。その結果、それほど正確に予知できるものではないとの結論になったが、この年はペルーで2回、チリで1回、どちらも中規模の地震が起きたことを考えれば、米国の予知は半分当たったようなものだと言うことになり、この年は年末まで両国はかなり不安な日々を送ったと言うことである。 さらに、1990年5月29日、北東部で6.3の地震が起きた、余震が20回以上にも及び、死者200人以上、負傷者800人以上、家を失った者は15000人に上ったと言われる。この日は、2日後の5月31日が5万人以上の死者を出した中部アンカシ地方を襲った大地震の20周年目にあたり、死者をともらう式典の準備の真っ最中であった。そして、1年後の1991年4月6日にも北部がM6,2の地震に襲われ、死者30人、負傷は多数をだした。 これ以後については、記録が整理できていないので、記載することができない、追ってアップデートする予定である。 【ペルー編の追加と訂正】 (第1部:マチュピチュの項に追加) @ 2001年3月8日の日経新聞はこう伝えている。「東大防災研究所の佐々木博士が明らかにしてところによると、マチュピチュ遺跡の西側の斜面(ウアイナピチュに向かって左側)の一部が、1か月に1センチずつの速度で滑り落ちている。この速度は非常に早いスピードで、落盤落石の前兆と見られ、遺跡を全壊するだけの地滑りが起きる可能性がある。これからは、いつ地滑りが起きるのかを調べるのが課題であり、地滑りを防止し、 遺跡を保存する方法についても調査する」。 A 2009年から2010年にかけて異常気象のため南米南部は長期間の大雨に襲われた。このためマチュピチュ周辺でも豪雨が続き、1月26日、クスコとの中間地点で土石流が起こり鉄道が寸断された。このため大勢の観光客がマチュピチュの麓の町や手前のアグアスカリエンテスに足止めされた。取り残された観光客は約50人の日本人を含むおよそ2000人で、軍隊のヘリコプターにより順次救出された。その後2月8日になりペルー政府はマピチュへの立ち入りを禁止したが、鉄道の回復に伴い3月29日から観光を再開した。 B 2022年12月、カスティージョ大統領が逮捕されたことにより、支持者の群衆が騒ぎ出し、国内で暴動が起きるなどかなり混乱した。この時、マチュピチュを往復する鐡道も運行を停止したため、日本人を含む、多くの観光客がマチュピチュのホテルに足止めされた。 (ペルー編 第4部 (最終編) 終わり) 4回に渡ったペルー編を終わる。記述に誤りがある部分があるかもしれない。お気付きになられた個所があれば、どうぞご指摘を頂きたい。 kawataro47@ab.cyberhome.ne.jp まで。 |
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