【アルゼンチン (第2部)】
No.4 地球の裏側を走る
<車の価値>
アルゼンチンは、先に紹介したように、かっては先進国だった。日本のJAFに相当する“ACA”(アルゼンチン自動車クラブ)の創立が1904年(明治37年)と言う歴史が物語るように、自動車との付き合いは日本よりも長い。生活に密着しているので、車は物を運んだり移動の道具であるとの考えが定着しており、自分の技量以上の性能は望まないし、ましてや、豪華な仕様や、走行に関係ない機能やアクセサリーなどは無用だと思っている。だから、クーラーやラジオなどは殆ど別注だし、ときには時計までが、オプションになっている。道具だから、 使えば多少の傷が付くのは当たり前で、ベンツのシンボル・マークがなかったり、BMWのボンネットの二つの枠がすっぽり抜けて、穴が開いているのなどはちっとも珍しくない。
バンパーのことをスペイン語で“パラゴルペ”(paragolpe:衝突に対するもの)と言う。日本の車のバンパーは装飾品の一種なので、顕微鏡的な傷がついても大騒ぎになるのは大人げない。やはり、バンパーはその名の通り、車体を守るためのものであり、接触しても車体に傷がつかなければ、やれやれ助かったと思わなくてはいけないようだ。
バリオ(住宅地)の路上の片側には、ずらりと駐車の列ができているが、各車間はとても人が通れる間隔はなく、10センチもあればいい方で、殆どのバンパーが接触している。もしバンパーが気になるのだったら、この国では車は持てない。発車させるときは、前後の車を押して間隔を広げるので、駐車のときは、ギヤーをニュートラルにして、サイドブレーキは掛けないのが常識である。
サイドブレーキをかけて置くと、無理に押されて、バンパーの凹みは多くなり、タイヤもすってしまう。こんな傷だらけの車でも、大事にしている人は多く、時々、車体の後ろに、赤い紐をぶら下げて走っているのを見る。これは、“sin
envidia”(羨望心はありません)と言う印で、「私はこの車を愛しているので、どんな車も新車も羨ましいと思いません」と言う意味だ。しかし、アルゼンチン人特有の、やせ我慢だと言う人もいる。
<車窓からの市内観光>
ブエノス・アイレスには立派な建物が多く、人口が330万もいる堂々たる街であるが、由緒ある建物やタンゴにまつわる場所を見る他は、“ここだけは”と言うほどの観光ポイントは意外と少ない。このため、観光バスで周る市内観光は半日もあれば終わってしまう。そこで、マイカーで、バスのコースにオプションを付けて、市内を走って見よう。 どの観光バスも、まず、道幅144メートルで世界一広いと自慢する、ヌエベ・デ・フーリオ(7月9日)通りから走り出し、真中より少し北側にある、市のシンボル、オベリスコ(四角い尖塔)を見物する。オベリスコは高さ67.5メートルあり、ブエノスアイレス市創設400周年を記念して、1936年に建設された。プレビッチと言う建築家が157人の労働者を使い、僅か31日で完成させた。できたときは表面は全部白色石灰岩の化粧石で綺麗に覆われていたが、真下を通る地下鉄の振動で、それが剥がれ落ちたというエピソードがある。10数年前に真っ白く塗り直された。
ヌエベ・デ・フーリオに面した両側の通りには、10階〜15階の中層ビルが連なっているが、街並みに統一の取れた美観を保つため、ベランダをつけられるのは2階(日本の3階)にだけである。夏の夕方には、西陽の当たるカルロス・ペジェグリーニ通りのビルの2階のベランダには、カラフルな日除けが一列に並び、美しいアクセントを画きだす。
ヌエベ・デ・フーリオの中央部で交差する大通りが五月通りで、約1.5キロのこの通りの東端が大統領官邸、西端が国会議事堂で、この間の通りが、様々なデモ隊の行進コースになったり、カーニバルの行列の舞台にもなる。大統領官邸前の“五月広場”は、かって、ペロン大統領やエバ夫人の演説を聞きに、数万人の群集が集まった所であり、今では、政府に対する抗議活動を行なう、様々なデモや集会広場となっている。
クーデターの多いラテン・アメリカの国々の大統領官邸は、いざ、と言う場合に逃げ易いように、港とか飛行場の近くに位置していると言うことを聞いた事がある。そう言えば、パラグアイのアスンシオンの大統領官邸も裏はパラナ川であった。アルゼンチン大統領官邸も、裏側は、今は再開発されて商業区域に変身したかっての保税倉庫が並んでいるドック地帯になっている。
大統領官邸の裏から続く、プエルト・マデーロと呼ぶこの再開発地域には、煉瓦造りの立派な保税倉庫が立ち並んでいたが、少し北に新しい港ができてから、長い間さびれていた。90年代の経済繁栄時代に、これに目をつけた商業資本が、1階をレストランに、上をオフィスにした新しいビルにリニューアルした。かっては港特有の油でギシギシした線路が走っていたこの辺りは、今では新しく脱皮したブエノス・アイレスの象徴的な景観を呈している。
大統領官邸前の五月広場当たりから南に下って行くと、日本人移住者の多いサン・テルモ地区である。サン・テルモには、タンゴ・ショーを見せるタンゲリーヤ(ライブ・ハウス)がたくさんある。タンゲリーヤも、所謂“失われた80年代”と言われた経済混乱期には、ばたばたと潰れた店が多かったが、その後経済回復期に合わせて新しい店が新たにたくさん生まれてきた。
そういった中でも、日本人を始めとする外人観光客に有名な、伝統のある”エル・ビエッホ・アルマセン”と言う店は、1844年に創立された由緒ある英国病院の跡地に建てられた店である。この病院では、1848年に、アルゼンチンで初めて麻酔を使った手術が行われた。ビエッホ・アルマセンは、20年余り前に一度閉店したが、5年ほどで再開にこぎつけた不死鳥のような店である。しかし、古い、伝統を誇った”リンコン・デ・ロス・アルチスタス”とか、”カフェ・デ・ロス・アンフェリートス”と言った老舗は遂に立ち直れなかった。寂しい限りである。
サン・テルモの坂の上にドレゴ広場がある。いわゆる蚤の市である。此処へ来ると古い物なら何でもある。アルゼンチンは、戦争も天災もなかった国なので、“お宝拝見”番組に出したくなるような骨董品の陶磁器を始め、アンティック・カメラ、ラッパ型蓄音機、磁石式時代の電話機、宝飾品類、金銀の食器類、古いタンゴのドーナツ版レコードなどなど、愛好家には涎の出そうなものがなんでもある。東洋の美術品も結構並んでいる。
これはら第一次、第二次世界大戦で金持ちになった人々が、ヨーロッパへ旅行し、帰りに持ち帰った物であるが、80年代以降の経済不況の頃に手離したものだ。私が居た頃の話で、ある日本人が、柿右衛門の皿を50ドルで買って日本に持ち帰ったら500万円になった、と言う話を聞いた事がある。 しかし、日本人は足元を見られることが多いようだ。
ドレゴ広場を囲む周りの道は、日曜日だけ、下積みのタンゴの楽士やダンサーにとって、晴れ舞台に変わる。大勢の人が集まるこの広場は、大衆にアッピールする絶好の舞台なのである。
アルゼンチン・タンゴの発祥の地である、ボカは昔のアルゼンチン随一の港で、1800年代のヨーロッパからの移民は皆この港に上陸した。何処の国でもそうであるように、港街ボカには、娼婦のいる安酒場が密集していた。今でもその頃の面影を残すカンティーナ(酒場)が何軒も営業している。 この岸壁に通じる引き込み線路を撤去した跡の道が、ブエノス・アイレス観光の最大の目玉である、カミニート通りである。僅か150メートルほどの道の両側の家の壁や屋根は、昔、船の塗装用に使った残りの、原色のペンキで大胆に塗り分けられ、独特の一角を作り出している。通りには、画家の卵達が自作の絵や彫刻を路上に並べて売っている。
東側にはボカの風景に必ず付きものの、真っ黒なクレーン橋(運搬橋)が見える。真偽のほどは分からないが、このクレーン橋は、うまく作動しなかったので、設計者は責任をとって自殺したと言う話を聞いた。真っ黒に聳えるこの橋はボカのシンボルでもある。 直ぐ側には、パレルモにあるリーベル・プラーテ(River
plate)とブエノス・アイレスのサッカー人気を二分する、名門ボカ・フニオール(ジュニアー)チームのスタジアムがある。かってJリーグ・ジュビロの高原直泰が移籍して話題を流した。ここのスタジアムの観客席は、下よりも上の方が広がった形なので、“ボンボン入れ(bonbonero)”スタジアムと呼ばれている。
ヨーロッパの最新モードがいち早く店先に並ぶのがフロリダ通りである。米国のジョージ・ソロスの息の掛かった巨大ガレリアが出現し、歩く人々の服装が米国風のラフな軽装に変わり、広告塔のような電話ボックスが出現し、物乞いが増えて、レコード屋から流れる歌はタンゴに代わってロックが幅をきかせるようになったことなど、往時を偲ぶ自尊心の高い老ポルテーニョ達は、街が落ち着かなくなったと嘆いている。
なんでも“世界何大・・・の一つ”と言うのが好きなポルテーニョが自慢するものの一つに、パレルモ公園がある。広さはよく知らないが、世界一広いと書いてある本もある。優に4キロ四方はあると思う。中には、真っ白な美しい橋の掛かる池や、プラネタリューム、動物園、植物園(野良猫が無数にいるので別名“猫物園”とも言われる)、ゴルフ場、ポロ競技場、リーベル・プラーテ・サッカー・スタジアムなどなどがあり、あちこちに彫刻像が立っている。
此処で、忘れてならないのが、日本庭園の存在である。日本人移住者が建設して市に寄付したもので、入り口には、菊の紋章と、アルゼンチン共和国のエスクード(盾形紋章)を並べた大理石のプレートが置かれている。奥に建つ茶屋の屋根を葺いた銅製の瓦は、入場者が名前を彫って寄付したものである。当然私ども一家の名前の入った瓦もあるはずである。植えられている樹木は、紫陽花、桜、椿などで、エスコバールと言う郊外の町に住む日本人移住者が寄付したものである。建設から50年ほど経った今では、すっかり大木に育った。また、池の錦鯉は日本生まれであるが、ポルテーニョ達は、これを“バグレ・コロラド(色付き鯰)”と呼んで、やたらに餌をやるので、可哀想なまでに肥りきっていて動作が鈍い。
パレルモから線路を越えてラ・プラタの川岸にでると、そこは、コスタネーラと呼ぶ川沿いの焼肉専門のレストラン通りである。以前は通りの片側だけにしか店がなかったが、その後、川岸を埋め立て両側に30軒以上のレストランが建つようになった。ラ・プラタ川は、この辺りはもう殆ど上流の端に近いが、それでも川幅は40キロ以上あり、対岸のウルグアイのコロニアの町は見えない。水平線しか見えないま海のような広さである。川の水は上流の鉄分を含んでいて、赤茶けており透明度は殆どゼロに近い。それでも、生まれつき川の水は赤いものと思い込んでいるポルテーニョ達は、夏にはこの水で泳いだり、鯰釣りなどして楽しんでいる。
レストランで食べるのは、アルゼンチンらなではの豪快なビフテキ (ビフテキのことを ビッフェ・デ・チョリッソ ”bife
de chorizo”と言う)や、パリジャーダと言う、牛、羊などの内臓の網焼きなどである。豚は殆ど食べない。ビッフェ・デ・チョリッソ の一人前の量は平均400〜500グラムある。日本からきた旅行者をすぐに、こういった店に案内すると、出てきた肉を見ただけで疲れきった胃袋は拒否反応を起こしてしまう。本当は牛肉は消化がいいので、アルゼンチンでは病人食や離乳食にしているのだが、それが分かるまでには相当な時間が必要だ。
アルゼンチンとウルグアイの国境を流れるウルグアイ川がラ・プラタ川に変わる辺り、ウルグアイを指呼の間に望む川の中に、マルティン・ガルシア島がある。ここは、往時の政治犯の監獄があった島で、今ではその施設などが公開されている。
前回と合わせ、ブエノス・アイレスの見るべき所は大体は紹介した。あとは、市内に無数にあると言っても過言ではない、色々な博物館(大統領官邸の地下にもある)、大小の美術館、由緒ある教会、歴史上の人物の名前がついた公園・広場、格式のあるコンフィテリーア(喫茶・バー)やレストラン、それにタンゴ・フアンならばタンゴに縁のある場所などがお薦めである。
そこは、南米一、ニの大都会だけあって、ヨーロッパ諸国に劣らぬ見所はたくさんある。趣味と関心の深さに従って足を向ければよい。全く目的を持たずにブエノス・アイレスの街を見たければ、ミクロ・セントロを出れば、いずこも同じ雰囲気である。自動車を20キロくらいのスピードに落とし、一方通行の街路標識の矢印に従って、ジグザグに走り回ることである。車窓からは、「未だに石煉瓦を敷き詰めた道が残っていて、犬の糞があちこちに盛り上がっている歩道に面した、壁が灰色にくすんだ古い家の戸口には、所々で、何を瞑想しているのか、老人がじっと腰掛けている。何処へ流れるのか、市役所でも分からないと言う下水が随所で詰まって、天気の良い日でもあちこちで水が溢れ、この水にタイヤを濡らしながら、屑鉄同様の古自動車が埃を被って立ち腐れている。
四つ角でしばし停車すると、『こちらの角のフィアンブレリーヤ(パン、肉、ワイン、飲物、菓子、キャンデー、煙草などの他、日用品などを売る店)の薄暗い奥では、肥って髯を生やした小父さんが、サッカーの放送に夢中になっているし、向側の小さなコンフィテリーヤの隅では、一人の老婆が一口のパンを、もぐもぐと5分もかけて食べている。その隣では、若い二人連れが身振り手振りも大袈裟に、延々とチャムージョ(お喋り)に熱中している』――と言うような光景を見ることが出来る。 地球の裏側の大都会の片隅では、余りストレスを感じない庶民の、こんな光景が365日繰り返されているのだ。
(地球の裏側を走る 終わり)
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