【アルゼンチン (第3部)】 No. 1 タンゴの発祥地 アルゼンチン・タンゴに興味をお持ちでない方には、退屈かもしれないが、アルゼンチンを語るときに、"タンゴ"について触れないでは通れないし、タンゴを鑑賞しながら食べて飲む、肉とビーノ(ワイン)についても、やはり少しは語らなくてはなるまいと思う。 しかし、100以上ものラテン音楽の同好会やフアン・クラブなどがあり、タンゴに関しては、本家アルゼンチンを凌ぐと言われるほどに、タンゴ・フアンが多い日本には、その誕生から、沢山ある名曲の紹介、演奏家や歌手のパーソナリティの解説、さらには、演奏スタイルや歌い振りの評価などをする、自薦・他薦の評論家がごまんといるように思えるので、そのようなことに素人の私如きが触れるのは、ラ・マンチャ地方の風車に立ち向かう、ドン・キホーテのようなものなので、ちょっと視点を変えて見ようと思う。 【タンゴによせて】 移民とともに各国の歌が持ち込まれてきたが、特に ”キューバとの交易が盛んになって"ハバネラ"が流行し、それまでにあった"カンドンベ"と結びついて"ミロンガ"が生まれ、これが発展してタンゴになった”、と言うのが一般的に言われているタンゴの誕生の物語であるが、専門家の説にも色々あるので、どれが正しいのはよく分からない。 移民の上陸地であり、ブエノス・アイレスで唯一の港であったボカの港周辺には、船乗り相手のカンティーナ(女のいる安酒場、2階にはベッドのある部屋がある)が沢山できて、そこで流行り出したタンゴは、歌詞が隠語を使った下品なものが多いとか、踊りも男女が密着したり、足をからませたりする踊り方が余りにも卑猥だと言う事から、インテリ階級からは蔑まれ、長い間、中上流階級からは無視されてきた。しかし、音楽そのもの芸術性が認められ、今では、アルゼンチンが世界に誇る文化財として尊重されている。 現在までに、楽譜が残っている一番古いタンゴは、1880年に発表された"バルトーロ"と言う曲であるが、今日までの発展の歴史の中で、多くの名演奏家や歌手が誕生した。その中でも、傑出しているのが、時の大統領の名前は知らなくても、この人の名前を知らない者はいないと言われるほどの、不世出の世界的大歌手"カルロス・ガルデル"である。 ずば抜けた大歌手であるが故に、数え切れぬほどのエピソードがあり、その人生は多くの謎に包まれていた。そこで、私がアルゼンチンで手に入れた資料を元に、その謎を解き明かした随筆のサマリーを紹介し、ガルデルをご存知の向きの一興に供したいと思う。これは、1998年に、ラテン・アメリカ情報誌「オーラ・アミーゴス」の夏号に発表したものである。また、このホームページに 「カルロス・ガルデルの系譜」と題した読み物を掲載しているので、ご一読願いたい。 【カルデル神話の謎を解く】 このようにガルデルの神話は一人の人間の生涯について、最も基本的なデータが曖昧で、謎めいていることから創り出されたものである。その上、ガルデルの場合は、彼の音楽芸術分野における素質と人気が、タンゴの歴史の中で比類なきものであるため、その偶像としての神秘性が、謎めいた出自を厚く覆い、興味を持つ人々の間で、その解明を試みようとする様々な憶測と推論が巻き起こされたことも、この神話を一層ミステリアスなものにしたのである。 <いつどこで生まれたのか> タクアレンボ市説は、1893年3月に母親と一緒にアルゼンチンに渡ってきてから、フランス国籍のままでいたが、これではフランスに帰り、徴兵検査を受けなければならない。これを逃れるため、すでに歌手としてかなり人気が出ていたので、彼のフアンである政治家や警察関係者に働きかけ、アルゼンチン人としての身分証明書を発行してもらった。しかし、このこの身分証明書を紛失してしまったので、今度は、まずウルグアイの偽の出生証明書を手に入れ、それを元に正式にアルゼンチン国籍を取得しようと思いたった。 このため親しい人を介して、アルゼンチン駐在のウルグアイ領事に手を廻して、タクアレンボ生まれの出生証明書を発行してもらった。この証明者があれば、国籍は出生地主義のウルグアイでは、自動的に国籍が取得でき、隣国アルゼンチンへ帰化して国籍を得るのは容易だった。また、ガルデル自身も、徴兵忌避問題に触れられるのを嫌い、周囲の者にはウルグアイ人だと言っていたためである。 <ガルデルの父親は誰か> 父親ホセもベルタを追ってアルゼンチンに来たが、再会することができず、その後、教育者として学校を建てたりして名を知られるようになったため、周囲や一族が、過去の過ちを秘匿するようになり、永遠に再会は実現しなかった。ガルデル自身も、真実を知ろうとしたが、誰も本当のことを話さなかったため、事実を知らないままコロンビアで世を去ったのである。 <本当の国籍はどこか> 1923年3月に晴れてアルゼンチンのパスポートを取得、アルゼンチン人として10月に初めてヨーロッパへ演奏旅行に出かけた。それまでにもウルグアイやチリには興行ででかけたことがあったが、隣国へはパスポートは必要なく、身分証明書(セドラ)で入国できる。(筆者も、駐在するには永住ビサで入国するので、セドラが入手できた。この制度は現在でも同じ)。 このように、これまでガルデル神話を創り上げていた数々の謎は、遂に解明されたのである。しかし、チャカリータ墓地のパンテオンに眠るガルデルは、果たしてなんと言うであろうか。右手の煙草をくゆらせながら「親父のことや国籍のことなどどうでもよいことさ、それよりも俺の本当に知りたいことは、メデジンで俺が乗った飛行機を落とした奴は、一体誰なんだと言うことさ」 とつぶやいているかもしれない。 【歌は世につれ・・・】 「歌は世につれ、世は歌につれ」とは、よく言われる言葉である。アルゼンチン・タンゴの盛衰も、また、アルゼンチン共和国の栄枯盛衰と共にあった。タンゴが楽譜の上で公に認められた1880年から数えて100年目になる、1980年には盛大な100年祭が行われた。この100年間は創生期(1880〜1920)、第1期黄金時代(1920〜1935)、第2期黄金時代(1945〜1955)と分けられ、それが、そのままアルゼンチンの発展と一致している。 特に、第1期のタンゴ黄金時代は第一次世界大戦後に当たり、世界は交戦国を中心として大不況に見舞われた。それにもかかわらず、戦争に荷担しなかったアルゼンチンは、その資源を生かし大いに外貨を稼いだ時代である。現在に残る鉄道、地下鉄、主要建築物などは主としてこの頃のものである。 そして1923年にはブエノス・アイレス市内の中心部では電話の自動化が始まった。このような国力の充実と共にタンゴも隆盛を極め、カルロス・ガルデルが活躍したのも、この頃のことである。彼は、僅か45年の生涯で、6000曲ものタンゴをレコードに吹き込んだ。当然ながらこの時期に、現在でも広く演奏され、日本人にも親しまれている有名なタンゴが数多く誕生している。 その中の一つに、1924年に作られた「ア・メディア・ルス(淡き光に)」がある。タンゴの歌詞には、人生の吹き溜まりに集まった男女の生活をつづった生々しいものが多い。これもその一つであるが、歌詞の中の ”電話” の存在を通して、タンゴの主役の一人でもある娼婦の生活の一端を覗くことができ、かっての先進国の住宅環境を知る上でも参考になる。 |
A Media Luz Corrientes tres, cuatro, ocho. Segundo piso ascensor.. No hay portero ni vecino Adentro coctel y amor; Pisito que puso Maple, Piano, estera y velador... Y un tele'fono que contesta Y una fanola que llora Juncal doce, veinticuatro Telefonea sin temor; De tarde te' con masitas De noche tango y cantar: |
淡き光に エレベーターで2階(日本の3階)へ上がれば ポルテーロ(注1)も隣人もいない 部屋にはカクテルと愛があり、 床にはマプレ(注2)の家具、 ピアノ、ジュータン、それに小さなテーブル。 そして、答える電話(注3)と すすり泣く蓄音機。 フンカル局(注4)1224番 怖がらずに電話して下さい(注5)。 午後にはケーキでお茶を、 夜はタンゴを聞き、そして歌う・・ (訳詞筆者) |
(注1)日本では管理人だが日本とは違う。マンションに住み込み、掃除、郵便物の受け取り、共用設備の運用・保守、ガレージの整理等を行う人。
第二次大戦の後の経済的に繁栄した時代にも、やはり名曲が誕生している。しかし、その後は70年以上も、繁栄どころかインフレ、不況を繰り返し、過去の栄光は益々遠くなってしまった。果たしてアルゼンチンには,またの繁栄時代は来るのだろうか?。 タンゴの話がとんだ方向へ逸れてしまったが、長い歴史を持つタンゴの中には、表面的な歌詞だけを見て、卑猥だとか下品だとか言うだけでなく、このように時代を分析し得る資料となるような、貴重なものもあると言うことがお分かり頂けると思う。 |
アルゼンチン編 第3部 No.2へつづく |