アルゼンチン・ワイン物語

 ≪ 1. タンゴとワイン≫

  日本人が飲む酒の種類の代表的なものは4種類、すなはち、日本酒、ビール、焼酎、それにワインであろう、そのワインの世界的生産地は、勿論ヨーロッパがNoだけど、それと並んで世界的産地を築いてきたのは、南米、いやアルゼンチンとチリの南米組だと言うことを知らない知らない人、特に若者には多い。理由はいろいろあるが、要するに一種の偏見だと思うが、茲ではふれないこととする。

  1990年ごろから、日本でもアルゼンチン・ワインは珍しくなくなってきていた。それまでは、アルゼ ンチンと言う国から何を連想するかと聞けば、殆どの人はタンゴとサッカーのいずれかを挙げた。しかし、私の強い贔屓目で見ると、1990年代当たりから僅かではあるがワインと答える人がでてきた。これは、アルゼンチン政府の後押し もあり、醸造業者がそれまでの国内消費重視主義から、輸出に重点を移してきた結果であるが、その裏には、アルゼンチン・ワイン醸造業界に、これまでになかった大き な変革が起きてきた所以でもある。そこで、アルゼンチン・ワインを飲んでみようと思う方々のために、雑学としての”アルゼンチン・ワイン”を紹介しようと思う。
(註)できるかぎりアップデートしましたが、近年の事情は分からないことがあるので、事実と違う記述があるかもしれません。その節は、下記までご指摘ください。
   kkashimura@t.toshima.ne.jp または kawataro47@t.toshima.ne.jp

  この物語は、私のアルゼンチン駐在生活中(1982.1〜1985.12)の経験を基に、アルゼンチンの新聞、雑誌、現地在住の友人からの情報、JETROなどから集めた資料を加えて纏めたもので、最初の執筆は2001年であるが、2007年になり最近の事情にアップデートして大幅に修正し,さらに、2009年、2011年、2015年、2018年にも修正を重ね、その後長年のブランクがあったが、今回(2023.11月)に分かっている事情を加えてアップデートしたものである。

  日本とチリが2007年に経済連携協定(EPA)を結び、ワインの関税がゼロになった。この結果南米ワインの日本市場は完全にチリに独占された。私は仕方がないと思っている。なぜならが、チリハバルパライソ(最大の貿易港)と横浜は一衣帯水である、日本市場に情熱を燃やしていた。一方、アルゼンチンは、ことあるごとに懐かしい宗主国のあるヨーロッパばっかり望んでいて、アジアには、悪い言い方をすれば、一種の蔑視感をもっていて、それほど魅力的には感じていなかった節があるからである。

  外国に行ったら、その国のワインが一番美味しいと言われる。それは、その国のワインが、その国の気候風土や食べ物に一番良く合っているからだ。アルゼンチンは、 国土が日本の7.5倍で人口4千5百万人なのに、牛が何と6千5百万頭もいて、牛肉が主食とまで言われている。したがって、さぞかし赤ワインが沢山飲まれていると想像するだろうが、私が4年ばかり住んでいて知った限りではそのような極端な差はなく、むしろ酸味の効いた白を好む人(特に女性)が多いように思える。この好みは長年の習慣からできるもので、日本酒党が急にウイ スキー党に変われないのと同じだ。

  私は妻と大学を出てすぐの娘を連れて赴任した。毎晩ブエノスアイレスのスーパーで売っているワインを3人で一瓶半のんでいた。そのうちに市内で売っている銘柄は全部飲み尽くしてしまった、郊外や地方へ行ってその土地の地ワインを飲むのが楽しみであった。
  日本のタンゴのコンサート会場では、ワインを飲みながら聞くなんていうことはとてもできなかった。咳一つもできないような、まるでクラシックを聞いているような雰囲気だった。ブエノス・アイレスでも、もちろん大劇場での演奏会はあるが、普通はタンゴ喫茶とかタンゴ・バーとかレストラン(これらをタンゲリーヤとも言う)で夜遅くに熱演を聞いたものだ。1980年代の経済大混乱時代には次々とタンゲリーヤが潰れ、国民も我々外国人のタンゴ・フアンも、このままブエノス・アイレスのタンゴの灯は消えてしまうのではないかと心配したものだった。しかし、1990年代になって国営企業の民営化が進み、多少なりとも経済が安定し発展したお陰で、タンゴ 界も息を吹き返し、タンゲリーヤも以前よりも増えてきた。ワインの国に酒の出ない店はないし食時付きの店もある。更に21世紀に入り、故キルチネル大統領の外債切り捨てという大胆な経済政策のかじ取りが功を奏し、何とか経済、社会が安定したようにも見えるが、その後の経済政策は相変わらず百年革清を待つの例えにも似た実態が続く。2023年にはまたまた、インフレ率が100%を超えた。もっとも1984年にはたった1年間で409%の実績を持つ国だから、国民もインフレには慣れている?だろうと思う。私もその年に現地に在住して経験した。一方で観光政策が活発に展開されるようになってきたときに、不幸にもCovid19の悪魔に見舞われた。一事は世界の感染者ワースト10に入った。そうした中で、目玉のワイントタンゴは今も外貨稼ぎの主役であり、経済回復に後見している。

≪下のアニメ≫ タンゴは18世紀の始めごろに、港町ブエノスアイレスの船員や娼婦達の屯する退廃的雰囲気から生まれた音楽だが、その踊りが卑猥であるとの理由から長い間、中流階級以 上には軽蔑されてきた。しかし、アルゼンチンと言う国を世界的に知らしめた功績は 大きく、タンゴなくしてはアルゼンチンを語れない。演奏中の曲はフアン・ダリエンソの演奏による「ラ・クンパルシータ」。 このHPの目次「No。20」の扉に、このカップルがタンゲリーアの中でオルケスタの伴奏で踊っている模様があります。
 タンゴは18世紀の初めごろに、港町ブエノスアイレスの船員屋娼婦たちの屯する退廃的雰囲気から生まれた音楽だが、その踊りが卑猥であるとの理由から長い間、中流階級以上には軽蔑されてきた。しかし、アルゼンチンという国を世界的に知らしめた功績は大きく、タンゴなくしてはアルゼンチンを語れない。
 タンゴを見たり聞いたりした観光客は下町と言われるサン・テルモ地区にある店に案内される。しかし、私はバリオ (住宅地)にある店のほうが好きである。石煉瓦の道に面した白い漆喰で塗られた平屋の家で、 入り口には銅製の少し歪んだファロリート(門灯)がぶら下がり、仄かに洩れる 薄明りが、演奏が始まる頃には人通りの絶えた小道を照らしている。こんな店の奥の薄暗い席でタンゴを聞きながらワインを飲む。タンゴもさることながら、このような店で飲むワインの美味しさは忘れられない。贔屓目ではなくアルゼンチン・ワインの高級品の香りや ”こく”はヨーロッパものに決して引けを取らない。

≪下の写真≫ エル・ビエッホ・アルマセン。観光客が必ず行く伝統ある有名なタンゴの店。1980年代後半猛烈 なインフレの時一時閉店したがその後復活した。

  アルゼンチンと言う国は、元来保守的思想が強く自尊心の高い国である。よく言え ば”いい格好し”であり”体裁屋”であるが、悪く言えば気位が高く利己主義である。義理人情と言った東洋的道徳観は全くない。何かを知らなくても知っていると言うし、間違ったことを平気で教えるので、道を聞くときは3人に聞いて2人の言う方角に行けと言われた。私も街で時間を聞かれたことがある。何故わざわざ外国人である日本人に聞くのかと訝ったが、日本人は正直だから嘘は教えないからだそうだ。
  一方、古い伝統や習慣を重んじる国民性からか、新しいものが入ってきても古いものと同居する。真偽の程は定かではないが、こんな話もある。「法律が改正されても古い法律が生きているため、裁判になっても双方が新旧の法律を盾に争う。また、 どんな小さなことでも決して口約束はせず書面にする。だから弁護士やエスクリバーノ (公証人、司法書士)が沢山いて、石を投げれば彼らに当たる」などとも言われている。
  建国以来外国との戦争はただ一度という平和国家なので、古いもの(カメラ、レコード、装飾品、楽器、有名画家の絵など)が沢山残っているので、アンティークマニアにはよだれの出る国である。

  私はブエノス・アイレスに住んでみて、アルゼンチン人の美点欠点をつぶ さに見てきた。アルゼンチン人と言っても、人種の坩堝であるこの国には純粋のアルゼンチン人種はいない。アルゼンチンと言う国のアイデンテイテイを持っていると言う意味だ。数百年前からの土着民は遊牧民か北部のインカ族の末裔である。しかし、いざ鎌倉と言うときには、先祖の血にかかわりなく国旗と国歌の下に一致団結する。マルビーナス(フォークランド)戦争の時がその好例であった。生まれたときに付けられるマイナンバーを基にした身分証明書(ドクメント・ウニコ=国が発行、トセドーラ=警察が発行)を常に持つ、成長に伴い一生に3回更新する。日本人は心配ばかりしている国民総背番号制(マイナンバーカード)は常識であり、それなりのメリットもある。私は賛成である。外国に出てみて、日本人の中に日の丸や君が代を認めない人間がいるのが嘆かわしいと感じたものである。

  アルゼンチン人の美点欠点を採点すれば五分五分かも知れない。日本人気質から見て、良いとも悪いとも言える特長の一つに、他人を気にしないことがある。夕方に通りを歩く時は、車道寄りを歩かなくてはならない。それは、デパルタメント(マンション)のベランダから植木に撒く水が落ちてくるからだ。住民は下を歩く人のことなんか全く意に介さない。注意しない方が悪いとの論法である。また、マンションの値段は分譲も賃貸も上へ行く 程高い。この理由は住んでみて分かる。上の階の靴音やピアノが煩いとか、工事の音が煩いとか、ごみやブロックやコンクリートの瓦礫が落ちてくるとかで苦情を言おうものな ら、逆に文句があるなら上の階に住めと言われてしまう。高い金を払って住む上階の人間にはそれだけの権利があるのだ。他人を気にしないから、旅行へ行っても近所や友人へのお土産は不要である。文化の異なった人種の混合社会は、他人のことを容易に信用しないし、人間性善説はとらない。その反面、肉親家族の結びつきはとても固 いのである。

 ≪上の写真≫ オベリスコ。 ブエノス・アイレスの世界一広い(道幅144米)と言われるヌエベ・デ・フーリオ(7月9日=独立記念日)通り、コリエンテス通り、それにヂアゴナル・ノルテ通りとが交わる6差点に立つ、市制400年を記念して昭和の初めに立てられた四角の尖塔。

  南米の大国をABC3国(アルゼンチン、ブラジル、チリ)と言い、アルファベット順だけでなく、実力的にも、マルビーナス戦争に大敗して、威信が失墜するまでは、アルゼンチンがリーダーであった。その後の文民政府は、失われた南米大陸内の指導的立場を回復しようと努め、そのためには米国と仲良くすることが肝要と、政治面、経済面、軍事面で米国べったりになった。湾岸戦争ではラテン・ア メリカ諸国で唯一艦隊を派遣したし、以前のイラク危機の際にも早々と軍隊派遣を表明し、 クリントン大統領からお褒めの言葉を頂いた。ところが、21世紀に入り、経済のグローバル化に伴う経済格差の広がりとか、米国のブッシュ政権の政策に対する批判の高まりから、ラテン・アメリカ諸国には反米感情からくるナショナリズムが高まり、ベネズエラやボリビア、エクアドルのように公然と反米を標榜する国々も現れてきた。更には中道であったアルゼンチンも21世紀初めのデッカダ=10年間以降では中道左派であり、親北米(南米はアメリカとは言わない、なざなら自分達もアメリカだからで、日本人が言うアメリカは”北米”または”エスタドススニードス”合衆国都いう) ハパラグアイだけになってしまった。モンロードクトリンに頼って、面倒を見て来なかった反動である。しかし、2023年11月の大統領決戦投票の結果、親米派のミレイ政権が誕生して2か国になった。南米諸国は、スペインとポルトガルというラテンを源流とする同一文化を共有している国々なので、何となくまとまりがいい。もう1870年代のチリとボリビア・ペルー連合軍の大平洋戦争以来、国同士の戦争はない。

  さて、本題のワインの話に入ろう。南米のワイン大国アルゼンチンにも、1990年代から世界の潮流である規制緩和や貿易自由化の波が容赦なく押し寄せてきた。ワイン業界も例外とはなり得ない。アルゼンチンのワイン醸造業者は80年代末頃までは国内消費だけでほぼ経営が成り立ってきた。
  ところが、一人当たりのワイン消費量は、ここ40年間で4分の1にまで落ち込んでしまった。1960年代には国民一人当たり平均で年間120 リットルも飲んだのが、70年代には90リットル、79年末には76リット ル、80年代には75リットル、90年代初めには55リットルと減り続け、21世紀に入ってついに40リットルまで減り、ここ10年位は30リットル台まで低下してしまっ た。世界第2位のワイン消費国から3位に転落したのである。
  これは、国内消費の75%を占めていた家庭用テーブル・ワインが、ビールや炭酸飲料にとって代わられてきたのが大きな原因である。勿論この間全く手を拱いていたわけではない。テーブル・ワインの消費が落ち込んだ反面、 高級ワイン(Vino Fino)の消費は逆に増えてきており、高級ワイ ン醸造業者は結構甘い汁を吸ってきた。
(註)南米ワインには、ファイン(fino=一級品)、レセルバ(reserva=2級品)、コムン(comu'n=大衆品)の3ランクがある。一級品には防腐剤が入っていないので輸出できず、日本で飲めるのは2級品以下である(大使館などが直輸入するものとか、旅行者が持ち込む場合は例外)。

  1990年代に入り多くの外国資本が参入して近代化が進められたことにより高級ワインの醸造が本格化し輸出も伸びてきた。このほかにも、少しでも売上を伸ばそうとして、特注でラベルに店の名前を入れたり、大きなイベントに合わせたも のを造ったり、瓶をユニークな形ものにしたり、一本一本の瓶にナンバーを入れてより 高級感を持たせようとしたり、外国人向けに、タンゴを踊っている絵のラベ ルを使うなど、それなりに努力はしてきた。
  そして、一番変わったと思うのは、エティケッタ(ラベル)の表記が英語主体になったことである。以前のラベルには英語など全く使われていなかったのが、最近は、スペイン語が全然使われていないラベルで装飾された瓶が沢山出回っている。自国語を誇りに思うアルゼンチン人にしては思い切った方向転換だと思う。こうした努力の結果,2010年の前半には北米への輸出量が始めてチリ・ワインを上回るようになった。 そうは言っても数字面では、大きな差はなく、数量で300万ケース対280万ケース、金額にして9700万ドルに対して7800万ドルである。ライバルのチリの業者は、この原因は、アルゼンチンの赤の横綱と言われるマルベックの人気が急激に高まり一時的に伸びたに過ぎないと強調している。因みに、アルゼンチンの白の横綱はトロンテッスと言われている。ただ、トロンテッスは北のサルタ州とアルゼンチン・ワインの金城湯池であるメンドーサ州の両方で穫れるが、サルタのトロンテッスが断然うまい。メンドーサでも栽培されているが、漆器と温度が最も適した土地柄のお陰である。
  表記が英語主体になった話で思いだしたが、日本人の付け焼刃のワイン・フアンが、ワインのラベルはフランス語じゃないと本物のワインじゃない、などと言う人がいたそうである。(もしかしたら今でもいるかもしれない)。

≪上のエティケタ=ワイン・ラベル≫ 左は外国人に喜ばれるタンゴの踊り。右は一本一本のラベル に番号が打ってある、最高級ワインの一つ”ナバーロ・コレーアス”。

  (つづく)  2023.11  
correcció

 

アルゼンチン・ワイン物語 Aへつづく