≪ 8. 日本に進出するアルゼンチン・ワイン≫ 第5章ではアルゼンチン・ワインのアジア進出について述べたがここでは日本での試飲会についてお話する。 既に述べたように20世紀末より輸出に力を注ぎだしたアルゼンチンのワイン醸造業者は、アジア各国の中でも台湾、上海、ソウルなどの主要都市で試飲会を催してきたが、日本に対して一際売り込みに力を入れていた。その証拠に2000年代になってから東京・広尾のアルゼンチン大使館と同居する領事館のサロンにおいて、、毎年アルゼンチンから十数社の醸造業者が来日して試飲会を開催してきた。こうした中、2006年にはホテル・オークラで、当時の扇千影参議院議長夫妻や駐日アルゼンチン大使が出席した大規模な試飲会が行われ、2007年以降も都内のホテルで、アルゼンチン・ワイン協会主催のセミナーや試飲会が行われて来た。しかし、本国の経済停滞によるためか、2010頃までには開催されなくなってしまった。出品していたボデーガの中には老舗も新参も混じっていたが、正直に言って売り込みは誠に下手であった。 私は縁あっていずれの試飲会にも招待され出席してきたが、ワインの味や品質の良し悪しを評価する前に、いつの会でもベンデドール(セールスマン)達の熱意がちっとも感じられないのが不思議でならないことを言いたい。招待された者の殆どは日本の輸入業者の代表とかマスコミの関係者である。しかるに、自社のワインを一生懸命に宣伝するわけでもなし、ただ黙って試飲用グラスを差し出す人に、これも黙って少量のワインを注ぐだけである。日本人はスペイン語は得意でない者が多いのは仕方がないけど、それなりに、何か喋って愛嬌の一つも振りまくとかの仕草ができないものかと思った。 もっともアルゼンチン商人の愛想のなさは、駐在で住んでいる時から知ってはいたが、あれでは、彼ら自身も飲んでもらった人が美味しいと思ったのか不味いと思ったなのか分からないだろう。小売り値段は幾ら位になるのかと聞いたら、大体10ドル程度だと言う。チリ・ワインでは、第1級ボデーガのコンチャ・イ・トロでさえ700円くらいのがあるんだから、値段ももっと研究しないといけない。こうゆう調子では商談に結びつけるのは容易ではあるまい。その証拠に、商談が成立していれば数ヶ月後には、当然何処かの店やデパートやスーパーに並ぶはずのものが、一向に姿を見せなかったことである。いかにもアルゼンチンらしいオルグジョッソ(気位の高い)な殿様商売だ。これでは、100年待ってもチリ・ワインを追い落とすことは不可能と見た。私が偏見と独断で評価すると、味や”コク”や香りは、それぞれの特徴があり、これはいけるというものもあるが、総体的に言うと、かって住んでいた頃のほうが口に合うのが多かったような気がしてならない。一つには輸出品には防腐剤が入っているためかもしれない. 2007年以降の試飲会に参加したボデーガを紹介する。 パスクアル・トソ、トラピチェ、ロス・ハロルドス、ドミノ・デル・プラータ、トリベント、ビーニャ・フンダシオン・デ・メンドーサ、テラッサス、ソフェニア、ファミリア・ルティーニ、サン・ウベルト、ファミリア・スッカルディ、フィンカ・ラス・モーラス、フィンカ・ラ・セリア、サレンテイン、カシーア、ニエト・セネティネル、ドン・クリストバル、RPB.SA(ビエッホ・アネッホを醸造する会社)、マルタス・ビニャード、フィンカ・フリッチマン、バレンティン・ビアンチ、チャカナ・エステート、ドニャ・パウラ、ミチェール・トリーノ、プレンタ、オー・フォウルニエル、サンタ・アーナ、デル・フィン・デル・ムンド、フェ・コ・ビータ、RPB・SA、ソフェニア、カイケン、カテナ・サパタ、ノルトン、ヘアン・ボウスケット(ジーン・ボスケット)、ドン・クリストバル、フェリックス・ラバケ、チャカナ・エステート、ファミリア・ショロエデール。 日本貿易振興会(JETRO)の資料によると、ワイン消費者の赤ワインへの嗜好の変化と、20世紀末のチリとアルゼンチンからの輸入の爆発的増加は、日本におけるワインの需要に大きな変化をもたらしたと言う。日本のワイン平均消費量は、1990年代の10年間で約3倍に増加した。1997年の消費量総計(国産と輸入品の合計)は、前年比で、32.1 %伸びて26万8040キロリットルに達し、ポリフェノールの効能が宣伝されてワイン・ブームがやってきた1998年には一挙に10万キロリットルも増加して36万9879キロリットルに達した。しかし1999年はワイン・ブームの急激な衰退を象徴して10万キロリットルも減って27万8503になった。その後も2000年は26万9053、2001年は25万9156、2002年は26万9665、2003年は24万7994、2004年24万0791、2005年は25万0598キロリットルと少しずつ下降線をたどりブームの再来は見られない。因みに金額で見ると、凡そ37万キロリットルを輸入した最大輸入年であった1998年の総輸入額は、凡そ13億5000万円である。 ワイン・ブームの中ではアルゼンチン・ワインは、日本市場の輸入量の中で第5位を占めていた。1997年に日本人が買ったアルゼンチン・ワインは約2500万ドルに上った。日本に輸入されているアルゼンチン製品は、増量用モスト(酒造用醗酵前の原液)とバルク・ワイン(樽詰めワイン)が一番多いが、それでも瓶詰め高級ワインの売り上げは、1997年には285万4000ドルに上り、着実な成長を見せていた。 1999年4月11日付けの朝日新聞に、「日本におけるフランス・ワインの需要が低下したため、1998年産のボルドー・ワインの値段が20〜30%も下落した」と言う記事が出た。これなども、日本人の嗜好の幅が広がり、味もそこそこで買い易い南米ワインが注目されるようになったためであったかもしれない。 例えば、「鮨には日本酒と頭から決めている人も、マグロには赤が合うと言われて試したら、以外にもよく合う。マグロの独特の酸味が赤ワインの酸味に合わせやすいためだ」などと、新たな発見をする人も現れている。 ところがである…ワインなら何でも売れた1998〜9年頃をピークに、消費者のワイン熱は急激に冷めてしまった。理由は、始めて飲む人を含め、低価格のワインを中心に飲んでみて、今まで飲み慣れていた酒と比べ、ワインが特別に飛び抜けた酒ではないことに気が付いたからだと言われている。 空前のワイン・ブームになったのは、1997年末から1999年前半までの約1年間がピークだった。この頃は、東京港に着いて倉庫に入ったワインは、その日のうちに出荷されたのに、2000年になってからは、値段を大幅に下げたり、おまけをつけたりして売りさばき懸命になった。今後は、1998年当時のようなブームはもう起きないだろうと言われている。 こうした秋風はアルゼンチン・ワインにも吹き荒れて、1999年の日本への輸出量は前年の4分の1にまで落ち込んだ。しかし、そうした中で、サンタ・フリア醸造のホセ・ズッカルディ社長は「日本人の成人一人当たり平均消費量はヨーロッパの10分の1なので、まだまだ増える余地はあるはずだ」と強気を隠さない。具体的には、日本人一人当たり年間に飲むワインは2.2リットル、ボトルにして3本、これはフランス人の25分の1に過ぎない。 一方、輸入一点張りのワイン業界にあって、総合商社の丸紅が、アルゼンチンのメンドーサ州とサン・フアン州にある醸造会社、カルテジョーネに40%の資本を投下し、アルゼンチン・ワインの輸出事業に乗り出したと現地の新聞に報道された。頼もしい限りである。 写真説明(2006.5.31:ホテル・オークラのサロンにおいて): 上から、会場風景、坂田藤十郎・扇千影夫妻、挨拶する駐日アルゼンチン大使、タンゴのデザインのエチケッタ、アトラクションのダンス。(つづく) 2023.11 corrección |
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