プエルト・モン ⇒ チロエ島・アンクー


  プエルト・モンの町は細長い町で、見るところは殆どない。太平洋岸の長い海岸線沿いに走る鉄道やバスの終点で、この先は人間が住むような環境ではない。海岸はフィヨルドになっていて、陸地は森林地帯である。日本へはパルプの原料が輸出されているので、プエルト・モンには木材関係の日本人がやってくる。そのせいか、ヨーロッパの国の旗に混じって日の丸の旗を掲げているレストランもある。
地続きのアルゼンチンもパタゴニヤの荒涼とした平地で、殆ど人が住んでいない。4キロ先の針の落ちる音が聞こえると揶揄されるような、静かな地域である。このような環境から、”地の果て”と言う表現がピッタリの町である。昔、エト国枝と言う歌手が歌った「カスバの女」と言う歌謡曲の歌詞に”ここは地の果て、アルジェリア・・・・”という歌詞があるが、アルジェリアはアフリカ北端でヨーロッパを望む希望の町で、地の果てなどと言うような所ではないだろう。

  この町の唯一の見所は、湾に面した通りに軒を連ねる民芸品や土産物を売る店と、西の端にある、アンフェルモ漁港と海産物などを売る市場である。通りの横では、どこでも見られる青空市場があり、野菜や海産物を山と積んで売っている。そんな中で、土地のレストランでアルゼンチン・タンゴ気違いのおやじが経営する店があり、店内にタンゴが流れているのが嬉しかった。タンゴの話になり、歌手や演奏家の名前をぞろぞろ並べ立てて知識を披露された。

  アンフェルモ港への道の両側は、手工芸品や土産物を売る店がびっしりと立ち並ぶ、民芸品の宝庫である。土産物店では、コート類やハンドバッグなどの革製品を売っているが特に珍しいものではなく、寒い土地なのでアルパカのセーターなどが雑然と山と積まれている。民芸品店では、チリ特産の輝石ラピス・ラスリを始め、珍しい十字模様の猫目石の指輪とか、焼き鏝で革を焦がして絵を書いた壁掛、木彫りの人形などが売られている。

  アンフェルモの市場では、海産物の店がびっしりと並んでいて、採り立ての魚介類をすぐに食べさせてくれる。名物料理の”クラント”を大声で客寄せしている店の1軒で、女の子が、何処で何時覚えたか日本語で ”うに、かに、あわび、安いよ” と売っていた。恐らく、日本の漁船員か木材取引で来た人からでも教えてもらったんだろう。クラントは数種類の貝類とじゃが芋、ソーセージなどをごった煮にしたようなものだ。一皿買おうものなら山盛りの量に驚かされる。その他の名物は、干した貝を首飾りのように輪にしたものや、コチャジュージョと言う太い昆布である。コチャジュージョは、北のバルパライソ港やビーニャ・デル・マルの海岸や、遠くペルーの海岸でも売っている。

  港にはヨット・ハーバーがあって、豪華なヨットげ係留されていて、洒落た雰囲気を醸し出している。避暑地だけあって、優雅に過ごす人も多いようだ。漁港の方には黄色とブルーに染め分けた小さな漁船が沢山もやっていた。真夏の2月なのに肌寒く、この季節特有のスコールのような俄雨が降り出し、そしてじきに止む。

  南緯42度と言えば北海道の函館とほぼ同じ位置になる。函館と違い、この先には殆ど人が住まない、南の国の地の果ての夜は一段と冷え込んでくる。ホテルの中には赤々と薪を燃やすストーブがあちこちに置いてある。ストーブの側で飲んだ”ピスコ・サワー”(ペルーの有名なカクテル)の味が忘れられない。

【チロエ島】
  チロエ島の観光は1日コースである。早朝、プエルト・モンの中心部からハイヤーを飛ばして30分も走ると、人影もまばらなフェリー乗り場に着く。車には妻と二人きりで乗っているので、運転手がやたらに話し掛けてくるが、訛りの強いスペイン語は聞くのが疲れる。

  フェリー乗り場から30分で、対岸のチロエ島に着く。海の上は風が強く一段と寒気が身に沁みる。この島は、南極と向かい合うティエーラ・デ・フエゴ(フエゴ島=火の島)に次いで、南米第2の大きさの島である。フェリーの桟橋からさらに25キロほど走ると、島一番の町アンクーである。チロエ島は、1960年(昭和35年)に三陸沿岸に大被害をもたらした大津波を起こした大地震の震源地に近い所で、途中にある川は、地震で河口が広がり入り江のようになってしまっている。

  この島は長い間チリ本国と隔離されていたため、異質な文化が発展したと言われている。アンクーは、島の観光拠点でもあり、要塞や島の歴史・文化を紹介している博物館もあるが、陳列物は、昔の騎士の鎧などの他は大して見応えのあるものはない。狭い階段の展望台があり登ると、アンクー漁港が一望にできる。写真を撮るには絶好の場所だ。ここにも市場があるが、中は魚の臭いが充満していて吐き気をもよおす。

  アンクーで一番高い場所にある、”口笛の丘”に登る。風が物凄い。一望する町の民家は何処も木造で、屋根も日本式の切り妻屋根なので何となく日本の風景に似た印象を受ける。家の周りはアレルセ(唐松の一種)と言う木を使った5角形の板を張り合わせたものである。この木は湿気や水に強いので屋根にも使われているが、資源保護のため伐採が禁止され、今ではみなトタン屋根に変わってしまった。

  この季節、午後からは風が益々強くなる。小さなフェリーは左右に大きく揺れ、前後に起伏しながら、朝の桟橋を目指す。何となくファンタジックな名前のチロエ島、振り返ってみると、今にも降り出しそうな黒い雲が低く垂れ込めていた。翌日早朝、プエルト・モンから1000km離れたサンティアゴへ向けて長距離バスで出発した。

 アンデスを船とバスで越える旅は終わった。地上を行く旅の醍醐味をたっぷり味わせてくれたコースである。このホームページの「ラテン・アメリカ民芸品の旅」の中でも書いたが、添乗員の旗を目当てに迷子にならないようにと、表通りをひたすら歩くパック・ツアーは、気軽な外国旅行には違いない。しかし、レストランや土産物屋の店員と無駄話をしたり、タクシーの運転手に近在の名所を尋ねたり、路上の物売りの老婆に路傍に咲く花の名前を聞いたり、ときには、料金をごまかされそうになったり、日本までバスで何時間かかるかとか、日本には動物園はあるかとか、とてつもない質問に戸惑ったりすることがあるが、これが異文化を肌で感じるというものであろうか。
 外国の旅は、ゆったりとした時間をかけ、手近な交通手段を利用し、口に合わない料理も一度はトライして、改めて日本の味の有り難さを感じたりすることが、大事な事ではあるが、なによりもまして、地上を走ることが絶対的条件である。皆様にも是非お試しされることをお薦めしたいと思う。


『コンセプシオン大地震の影響』
  2010年2月27日午前3時半(日本時間午後3時半)、このルートの沿岸でマグニチュード8.8の大地震が起きた。震源地はサンティアゴまでの中間の少し北寄りの沖合いである。バスの走る国道5号線は大体鉄道と平行して走っているが、車窓から見る右側はアンデスの山並みに向ってゆるい登りの傾斜地で、ユーカリとポプラの並木が続いている。ポプラの葉は表の緑と裏の白とが対照的で、遠くから枝葉が風に揺れるのを見ると、あたかもそよ風を受けた湖沼の水面に立つさざ波のように眺められる。
 チリのワイン畑は、南緯30度から40度くらいというから、サンティアゴの北からプエルト・モンの北辺りまでで、チリの一番豊かな地域である。当然ながら、この地震の影響はあったと思うが、それほどでもなかったようなのは幸いである。葡萄の木は、新しい苗を植え替えると、8年間は収穫出来ないと言われる。そうなったら大変であった。チリ・ブランドは、1990年頃から世界市場で、品質に比べて値段が安いことを武器に大躍進してきたのであるから。日本とは、2006年か7年にFTAを結び、ワインは関税がゼロになった。
 ヨーロッパが長年の栽培で土地が疲れ、国土面積からいって新しい土地の開発がままならないため、近年はオセアニアやカルフォルニア、それに南アフリカなどの新大陸産品が普及している厳しいワイン市場で、ヨーロッパに劣らぬ伝統を持つ南米ワインの魅力を維持していくのは大変である。南米ワインはアルゼンチン・ブランドと2本立てがいろいろな意味からも理想である。南米はこの両国以外でも生産しているが、品質では叶わないので、多くは蒸留酒にするか、国内消費に向けている。これからはチリ・ワインと共にアルゼンチン・ワインも、日本で手軽に手に入るようになってもらいたいものである。

  地震の影響と言えば、ワイン以上の問題を呈するかもしれないのが、鮭である。今の日本ではどこのスーパーでもデパートでも、魚を売っている所ではチリ産の鮭を売っていないところはない。世界的な鮭の漁獲高の1位はノルウエーで39.6%、そして第二位がチリで 37.2%である。日本の鮭の輸入量は2008年が25万トンで、このうちチリからが16万トンであった。これほど日本とチリ産の鮭とは切っても切れない関係ができている。しかし、ここまでの関係ができるまでには日本のJICA(国際協力事業団)の並々ならぬ苦労があった。1972年はじめからJICAは日本と緯度の同じ、環境も似たチリ南部のフィヨルド地帯で鮭の養殖試験を始めた。はじめは簡単に考えていたようだが、実際に始めてみると動物の本能の厳しさに打ちひしがれた。緯度は同じでも北半球と南半球は地磁気の影響とかで渦巻きも逆だし、台風の渦も逆など正反対の現象が多い(コリオリ現象)。放流する稚魚が帰ってこないのである。これを17年間も続け遂に1989年に試験を断念せざるを得なかった。しかし、この夢のような事業は幸いにもチリ政府に引き継がれ遂に成功した。そして収穫された鮭は日本の企業が買い取るという貿易形態が出来上がった。
  このように順調に養殖、輸出・輸入が行われてきた日本〜チリ間の鮭貿易に、このの大地震によって黄色信号が灯った。理由は稚魚を養殖する池が山間部にあるため、池が破壊されたりあるいは水流とか水源が変わったりする自然現象の変化が起きて、稚魚の供給がうまくいくのかと言う心配であった。幸いそうゆうことは起きなかったようである。日本が着目して世界第二位の鮭産出国にのし上がったチリが、いつまでも良質の鮭を供給してくれることを心から願うものである。
  
(追記)2012年3月25日の18:37(日本時間では26日午前4時37分)にも、チリ中部でM7.1の大きな地震が起きた。震源は中部タルカの北北西約27キロの地点で、深さ約34キロ、現地からの報道で女性1人が心臓発作で死亡、数人が怪我をしたと地元警察が発表した。津波は起きていない。

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