<カルロス・ガルデルの出生の真実>

第1章

カルロス・ガルデルとガルデス家の苗字の起源
 南フランスのアベイロン県ミロウ郡のマシソ・セントラルと言う所にセベラック城(シャトウ・セベラック)が聳え立っている。セント・ジェニエ・ドア(Saint Geniez d'Olt)の田園地帯に近いこの城は、1200年頃はギャルデスと名乗る一族によって管理されていた。このフランス人一族は、当時の習慣により仕事に因んで”ギャルデス”と言う苗字を名乗っていた。ギャルデスとう言葉は、フランス語で”見張り”とか”監視”とかの意味で、スペイン語ではガルデスになる。
 ガルデルの一族であるフランス人のルイス・ギジェエルモ・ガルデス博士は、1750年頃まで遡る18世紀頃の詳しい資料を調査した結果として、「苗字の起源は、ギャルデス・ル・クール(Gardez le Coeur)であり、この意味は”元気を持ち続けろ”とか”勇気を失うな”と言うような意味である。時代が過ぎると共に、この苗字から先ず”Le Coeur”と言う部分が消え、さらに洗礼証明書などが手書きで書き写されたり転写されたりするにつれて、末尾の”Z”が”S”に変わってしまい”Gardes”になったものであるということが分かった。しかし、ガルデルだけが、芸術家としての人生のために名前の響きが良い芸名として、1912年に苗字の末尾の”S”を”L”に変えたのである」と語っている。たしかに、ガルデルはガルデスより耳さわりが良い。
 「カルロス・ガルデルは神話ではない」と言う本の著者である、ティト・リ・カウシも同書の中で次のように述べている。「我々が口で話すときには、”ガルデス”の発音は”Galbes”とか ”Gades”あるいは ”Garbes”と紛らわしいため、”ガルデスの”デス”にアクセントと置いて ”ガルデッス”と言うようにしている」。

第2章
ガルデス家の先祖
 19世紀の中頃、アベイロン県(県都はローデス)のセベラック城に近いセント・ジェニエ・ドア村に、ルイス・ガルデスとロセ・コウティアルと言う男女が住んでおり、1840年に結婚した。彼らは、ガルデルの曽祖父母に当り、後にガルデルの先祖としてアルゼンチン・タンゴの歴史にとって極めて重要な役割を果たす事になった人たちである。この村はまた「2つのインディアスにおけるヨーロッパの創設」(注)と言う本の著者で、歴史家であり、哲学者でもあるアバテ・レイナル博士の揺籃の地でもあった。
 (注)Las asentamientos europeos en las dos Indias: 二つのインディアスとは新大陸であるインドと南北アメリカ大陸のこと。
 1840年に結婚したルイス・ガルデスとロセ・コウティアルには、1844年に最初の子供ルイス・ヘニエス(ガルデルの祖父)が生まれ、ついで次男チャールス(後神父になる)と3男ビタル・フアンが生まれた。長男ルイス・ヘニエスは成長した後に、ルシア・グレゴイレと知り合い1867年に結婚した。翌年彼らの家庭にホセ(ガルデルの父)が誕生し喜びに包まれた。ホセはその後に生まれてくる、ペドロ、エドアルド、アントニオ、ルシアーノ、フェリックス、マリア、セシリア、フランシスコの9人兄弟の長男で、皆セント・ジェニエ・ドア村生まれのフランス人である。
 その頃、ツールーズにルイスの弟のビタル・フアンと妻エレネ・クニェゴンデ・カマレスが住んでいた。彼ら夫婦にはベルタ(1865年6月14日生まれ)とフアンとチャールスの3人の子供がいた。しかし、この夫婦はベルタが9歳のとき離婚してしまった。ベルタは伯父夫婦ルイス・ヘニエスとルシア・グレゴイレに引き取られた。この出来事が遠因となって、後にルイスとルシアの夫婦は6人の子供を連れ、ブエノス・アイレスに渡ることになる。1891年1月のことである。ルイス・ヘニエス夫婦の一家はアルゼンチンヘ来てからしばらくの間、コチコ(ブエノス・アイレス州グアミニ郡)に住んでいたが、後ペウアッホ町に引っ越した。現在もこの付近にはガルデルの親戚になるカルデス一族の多くが住んでいる。

第3章
ガルデルの父ホセ・ガルデスの伝記
 ホセ・ガルデスは1868年12月13日、父ルイス・ヘニエスと母ルシア・グレゴイレの長男として、フランスのアベイロン郡セント・ジェニエ・ドア村のビージャ・コンバテラードで生まれた。幼少期を丘の中腹に立った家で、信仰心の厚い躾の厳格な家風の中で育てられた。
 ホセの大好きな趣味の一つは歌うことで、素晴らしい声を持っていた。大食漢で背が低く肥っていた。小さい頃からいたずらだったが快活で、その上好奇心が強く、自分の周囲の出来事を常に”どうしてこうなるのか”としつこく追求しては、しばしば両親を困らせた。聖職者だった叔父チャールスは彼に最初の躾をした人である。この躾が幼いホセの人生に大きな影響を与え、高い教養を具え聡明で尊敬できる叔父を手本として、後にホセが聖職者への道に関心を持つようになったのである。叔父はニューヨークで司祭に任命されており、母親ルシアの勧めもあったとはいえ、聖職者の道を選ぼうとする希望が、彼自身の心の中で膨らんでいったのである。
 一方、両親の間にはホセの後に8人の弟妹が次々と生まれ、年々家族が増えていった。そして、ホセが6歳のときにベルタ(9歳)が引き取られてきて一緒に暮らすようになったため、この家庭には小さな子供だけで10人も生活するようになった。彼らはいつも水の流れの速い小川にあった水車小屋で遊んだり、古いクルミの大木の洞(うろ)に入ったりして遊んでいた。長男のホセは弟妹達と遊んでくれる神父の叔父さんとお喋りするのが大好きだった。母親は早熟なホセを見て、クルミの洞の中でベルタと二人だけで遊んではいけないと、しばしば小言を言っていたので、ホセはベルタとは遊ばないようにしていた。ホセは定められた年齢に達して修道士生活に入り、聖職者としての道に励むようになった。毎年冬の休みには丘の中腹の家に帰り、家族としばしの休暇を楽しんでいたが、この頃から既にベルタとの間には仄かな恋心が芽生えていたのである。
 1890年の冬休み (ホセにとっては最後となった冬休み)はいつもと違っていた。22歳になったホセは、クルミの洞の中で25才になったベルタと再会した。このとき、早熟だった少年時代から心の内に秘めていた二人の愛情が遂に花を開いた。久し振りで会った二人は情熱の炎の燃え上がるままに身を焼き焦がし、遂にベルタはホセの子を宿してしまったのである。 数ヶ月が過ぎ、ベルタのお腹の形が変わってきて、もはや妊娠を隠しておくことが出来なくなってしまった。家族の中にベルタを罵る非難と、育ての親である伯父夫婦との仲を永遠に打ち砕いてしまった蔑みが充満した。
 一方ホセに対する罰も軽くはなかった。ホセが入信していたカルメル派修道院の神父の命令により、背信の償いにアジアに島流しになり、後アフリカに移された。異郷の地で、両親の家で起きているベルタに対する冷たい仕打ちを知ったホセは、聖職者への道を放棄して幽閉所から脱走してしまった。しかし、神への信仰心までも捨てたのではなく、自分の才能を生かして教育者として世のために尽くそうと考えていた。
 フランスに戻ってきたホセは、ボルドーで勉強を続けた後、弟エドアルドのいるツールーズに出てきた。そこで、ベルタがまだ見ぬ息子と一緒にアルゼンチンに渡ったことを知ったホセは、エドアルドと共に、1893年マルセイユからブエノス・アイレス行きの船に乗った。このときホセは、愛するベルタとの再会に胸を膨らませ、結婚を夢見て息子を認知するつもりであった。そしてまた、すでに2年前からにアルゼンチンに住み着いていた両親と一緒に暮らせることを期待していたのである。両親の元に着いたホセは、母親ルシアにベルタとの結婚の許しを求め、祝福してくれるよう懇願した。この頃ホセはすでにベルタと手紙による再会を果たしていたのである。しかし、母親はホセとベルタの結婚に猛烈に反対した。これを知ったホセは呆然となった。途方に暮れたホセは、ベルタに 「息子カルリート(ガルデルのこと)を連れてウルグアイへ行き、そこで自分を待っていてくれ、ウルグアイで結婚しよう」 と伝えた。ホセはウルグアイでベルタとの結婚の望みを果たそうと考えたのである。しかし、どうしたことか、(原因は現在も不明) 再びホセはベルタとの連絡ができなくなってしまい、結婚もできず遂に彼女とは永遠に会えなくなったのである。 
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