<カルロス・ガルデルの出生の真実>

第4章
ホセ・ガルデスのその後
  意気消沈してブエノス・アイレスへ帰ってきたホセは、ペウアッホ町の両親や兄弟の住む家には戻らず、小さな町で人目を避けるようにして住むようになった。二度までもこの世で二人を引き裂いた過酷な運命に見舞われたホセは、一時は生きる望みも失ったようになったが、”隣人を自分のように愛せよ<マタイ伝19:19>”との教えを思い出し、教育者として再起する事を決意、サン・マウリシオに学校を創立すると共に、ブエノス・アイレス州のチクラーナ町の学校建設にも協力するようになった。
  1898年の終わり頃、30歳のホセは、同じ教育者であるマリア・ルイサ・フレジアロと知り合い翌年結婚した。結婚したホセは、自分の学校が開校したペウアッホに引っ越してきた。学校の名前は、”El Comercial Mixto de Nuestra Sen~ora de Lourdes =ロウデス聖母マリア総合商業学校”と言った。真新しい学校で働き始めて間もない頃、ホセは懐かしく、そしてビックリするような手紙を受け取った。それは、ホセが結婚したことを知ったベルタからのものであった。手紙には、カルリート(カルロス・ガルデル)は父親についても、自分の出生についてもなにも知らない。自分も息子も今は経済的な援助は必要ないし、またそれを望んでもいないこと。しかし、これからも文通だけは続けたいという望みが書かれていた。ベルタ自身としても、また身内の人々のためにも、若い頃の恋の秘密を内緒にしておきたいという気持ちが強かったのである。
  ホセの人生は個人的にも教育者としても成功者として送られていった。ペウアッホの町では有名人となり、人々から尊敬されるようになっていた。この証拠として、ホセ個人や彼の足跡を知っている人達の様々なコメントを集めた新聞の切り抜きが残されている。ホセはまた兄弟達の先生でもあった。夜の授業には弟のフェリックスやフランシスコも出席し、また、ホセの子供達や甥姪、それに幾人かの孫もこの学校で授業を受けた。
  ホセは”シラノ・ド・ベルジュラック”をラテン語で完全に覚えており、それを朗読するのが大好きだった。そして、生徒に、学校での出来事を巧く表現することができるような創造力を養うように励ました。また、7月14日には祖国フランスの祝日を祝った。学校には何人かの孤児がいたので、ホセと妻は、個人的な愛情と奉仕の念を持って彼らに接し、フランス語での祈りを彼らが覚えるまで熱心に教えたりした。
  一方、ホセについてはいくつかの疑問が残されている。それは、ホセにはフランスで身つけた豊かな学識と文化人的感覚がありながら、何故田舎に引き込もることを決めたのか。なぜ知識や能力にふさわしいブエノス・アイレス大学などで働こうとしなかったのかとか、などである。もし、ホセがベルタとめでたく結婚していたら、ガルデス一族の知性と教育がガルデルにタンゴ歌手としての道を進むことを許さなかったかもしれない。当時の言葉で”タンゴ”とは、”猥雑なこと””淫らなこと”を表わす代名詞のようだったからである。もし、そうなっていたら、タンゴ歌手カルロス・ガルデルは出現せず、ただの”カルロス・ロムアルド・ガルデス”として、多分どこかの町の教会の聖歌合唱隊の、”ちょっと声の良い美男子”程度の男にしか過ぎなかったのではないだろうかと思われる。
  未婚の母としてベルタが耐えなくてはならなかった辛苦にもかかわらず、息子ガルデルの運命は順調であった。一方、ホセ・ガルデスとマリア・ルイサ・フレジアロ夫婦は円満に暮らし、6人の子供をもうけたが、皆ガルデルとは腹違いの弟妹になる。
次をどうぞ