<カルロス・ガルデルの出生の真実> 第7章 ガルデス一家のアルゼンチン移住 1890年も押し詰まった12月、ルイスとルシア夫婦は、長男ホセ(ガルデルの父親)と三男エドアルドを残し、6人の子供を連れて逃げるようにセント・ジェニエ・ドア村を出て、鉄道に乗りマルセイユに着いた。そこにはブエノス・アイレス行きの汽船が横付けになっていた。洋上で年を越した翌1891年1月、ブエノス・アイレスの港に着き、その頃の移民が皆そうしたように、一家は移住者用宿泊施設に泊まることになった。この時代は、ヨーロッパからアルゼンチンへの移民が最盛期を迎えていた頃である。 一家は誰もスペイン語が分からなかったが、幸いにも施設の中で、自分の畑の共同小作人を捜している地主と出会い、雇用契約が結ばれた。ルイスは自分達の経験が生かせる農場で働きたかったので、この話は希望にぴったりであった。しかし、そこには、既にセント・ジェニエ・ドア村の出身者が入植していることを知り、近親間で破廉恥な行いをした者がいる家族は、同じ村の出身者達に対して肩身が狭い思いをすると思い、残念ながらこの話は諦めざるを得なかった。 ルイス夫婦は、ブエノス・アイレス州のサーベドラ郡ピグエ町に、1870年頃に土地を買ったフランス人が建設した、フランス人農場の移住地があることを思い出し、そこに落ち着こうとした。そこには今でもセント・ジェニエ・ドア村の人と同じ姓の家族が住んでいる。ルイス・ヘニエスとルシアのガルデス夫婦は、土地の共有者(折半小作農)として大草原の中の平坦な土地に定住することになった。ここは、ブエノス・アイレス州とパンパ州との境に近いグアミニ湖の側のコチコ地区である。生活のために夫婦には荷車や作業用道具としての牛車や柄長の鋤などが与えられた。夜には天井から静寂の夜空に輝く星が眺められる質素な家で、夫婦と6人の子供達の生活が始まったのである。 一方、修道院の島流しから逃げ出してフランスに戻っていた長男ホセが、ベルタと息子チャールス(後のガルデル)に会うのを楽しみにしながら、三男エドアルドと一緒にアルゼンチンにやって来たのは、2年後の1893年のことである。 第8章 ガルデルの生い立ちと成長 カルロス・ガルデルは1890年12月11日に、フランスのツールーズで生まれた生粋のフランス人である。2歳の時に母親ベルタと共にアルゼンチンに移住してきた。1897年に小学校に入学し、1904年に卒業しているが、それまでに3回も学校を変わっている。おそらくこれは苦労の多かった母親の仕事の都合であったように思える。小学校を終わったガルデルは、母親を助けるためにボール紙工場の工員、時計屋の見習、印刷工場の植字工などを転々とする一方で、劇場の裏方の手伝いとして、緞帳の上げ下げをしたりしていた。彼はこのような雰囲気が大好きであった。 1905年、15歳になったガルデルは友人とウルグアイのモンテビデオに行き、しばらく滞在した後帰国、あちこちの酒場などで自作のレパートリーを歌うようになり、才能を発揮し始めた。ガルデルの出現で、それまで一般的だったパジャドール(ガウチョの吟遊詩人)とは違ったスタイルの歌い方が現れた。タンゴはまだこの頃は場末の酒場で、船乗りや遊び人や、彼らに体を売る娼婦などが踊る卑猥な踊りであったようである。 話は逸れるが、タンゴの最初の楽譜の出版は、記録では1880年の「バルトーロ」となっているが、それ以後1905年までに世に出たタンゴは次ぎのような曲である。「1897年:エル・エントリアーノ」、「1903年:ウニオン・シビカ, エル・ポルテニート」、「1905年:ドン・フアン、エル・チョクロ、ラ・モローチャ」など。因みにガルデルの最初のレコード吹込みは、1913年で、エスティーロと言うスタイルの「ソス・ミス・ティラドール・プラテアード(コロンビア、No.56748−1)」で、音声は伝送システムによる吹込みである。ガルデルが最初に歌ったタンゴは、ラ・クンパルシータが出来た1917年の「ミ・ノーチェ・トゥリステ」で伴奏は、リカルドのギターであった。 年は移り、1910年頃にはアバスト街で活動し、アグエーロ通りとウマウアカ通りの角にあった”カフェ・オロンデマン”でギターを弾きながら歌うようになり、一躍街の人気者になった。 街の人々はガルデルに”エル・モロッチョ”とか”モロッチョ・デル・アバスト”などの愛称をあたえ、このフランス生まれの若者を、クリオージョ(生まれながらのアルゼンチン人)として認めるようになった。(モロッチョとはクリオージョの愛称)。この年ブエノス・アイレスは市制施行100周年の祝賀で沸いていた。既に有名歌手の仲間入りをしたガルデルは、著名な詩人達の間にも知己を得て、太っちょの人気者となっていた。その中には、アルトゥーロ・デ・ナバとかガビーノ・エセイサとかホセ・ベティノッティなどの著名人の名前がある。こうした環境の中でガルデルは、アバスト街の隣のバルバネーラ・スールで人気を拍していた、通称”エル・オリエンタル”(東の人、つまりウルグアイ人のこと)ことホセ・ラサーノと出合った。この出会いは後々まで記憶される二重奏として名を残すことになったものである。 |
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