<カルロス・ガルデルの出生の真実>

第9章
人気が高まり外国で映画に出演する
  1917年はガルデルにとって重要な年であった。ラサーノとの二重奏が初の伝送システムによる吹込みを実現したのである。さらに、ガルデルは無声映画「フロール・デ・ドゥラスノ」に初出演した。生涯で製作した11本の映画の最初の出演である。俳優でもないただの歌手が、なぜ無声映画などに出演したのか、その理由は未だに誰にも分かっていない。
  1924年頃になると、二重奏はラジオ放送に出演するようになった。これによって、ガルデルの国内外における人気は一挙に高まり、トーキー映画に出演する道が開けた。ガルデルはタンゴを携えて二度目のスペイン旅行に向かった。公演は成功し、それ以後の外国における成功が約束されたのである。マドリーやバルセロナでガルデルは、アイドルとしてもてはやされ、人々は彼をタンゴの王様と称した。流行した曲は、「エントラ・ノー・マス(どうぞお気軽にお入り下さい)」と言う曲であったが、今日ではもう殆ど忘れられてしまったような曲である。スペインでガルデルは、高度の技術を要する電気録音を始め、2年間に200曲以上の吹き込みを行なった。そして、フランスの興行ではタンゴの官能的な踊りが大衆を魅了し、最初の1年間で11万枚ものレコードが売られたと言われている。
  働き盛りの40歳になったガルデルにとって1930年は幸せな年であった。ますます大衆を引き付けていったガルデルに、新しいトーキー映画の仕事がもたらされた。ブエノス・アイレスで、ガルデルにとっては2作目の「エンクアドレス・デ・カンシオネス」と言う映画を作るチャンスが訪れた。これはディセポロとかセレドニオ・フローレスと言ったタンゴの作者との会話の模様をスケッチした短編シリーズで、その中でガルデルは「ビエッホ・スモーキング」とか「マーノ・ア・マーノ」それに「ジーラ・ジーラ」などを歌っている。1931年にはフランスのパラマウント映画と「ルセス・デ・ブエノス・アイレス」と言う映画の契約を結んだ。大映画会社に認めてもらったのである。このことは、まさに、国際的な場でガルデル自身の”声と姿”を見せる玉の輿でもあった。しかし、1933年、ガルデルはこの映画が完成するとすぐにアルゼンチンに帰ってきてしまった。この年がガルデルにとって、アルゼンチンで過ごした最後の年となった。いよいよ次の目的地であるニューヨークを目指したのである。
  ニューヨークはガルデルにとって、いろいろな意味で初めてのことに挑戦しなくてはならない場所であった。まず、嫌々ながらもオルケスタの伴奏を受け入れなくてはならなかったし、英語の歌詞も作らなくてはならなかった。そして、暫くの間いつも”皆さん、私の言葉はスペイン語です。さらに言えば、私はポルテーニョです”と言い訳をしなくてはならなかった。できることは唯一つ、アメリカ風メロディーの「ルビアス・デ・ヌエバ・ジョルク」を歌うことだけであった。その上、映画の仕事も楽ではなかった。しかし、ガルデルは彼自身が即興的な興行師であり、出演料などについても鷹揚だったためか、大きなトラブルもなく、数ヶ月の間米国パラマウント社に籍をおいていた。それに満足したガルデルは、友人のデフィーノに宛てた手紙の中で 「我々は”エキシト・スパニッシュ・ピクチャー”と言う会社を設立し、私がディレクターになった。この会社はウエスターン・イレクトリック社が出資し、作品はパラマウント映画が配給する。私は2つの映画に出演し2万5千ドルの固定給の他に、利益の25%を受け取る契約になっている」 と語っている。この2本の映画とは、「クエスタ・アバッホ」(7作目)と「エル・タンゴ・エン・ブロードウエイ」(8作目)である。この成功はパラマウント社を動かし、さらに次の作品を完成させた。「エル・ディーア・ケ・メ・キエーラス」(10作目)と「タンゴ・バー」(最後になった11作目)である。「エル・ディア・ケ・メ・キエーラス」には、まだ子供だったアストラ・ピアッソーラがちょこっと出て、25ドル貰った。この頃、映画会社がガルデルに、英語の映画を作るため英語をマスターするよう申し入れた。ガルデルは難色を示したが、楽天的な彼は、「この国の人達は2000年までも俺と一緒に映画作りをしたいのかね」と笑っていたと言う。
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