<カルロス・ガルデルの出生の真実> 第11章 ベルタの死と親族会議 1943年、エドアルド(ガルデルの父ホセの弟、ガルデルの叔父)は、ベルタが重い病気にかかっていることを知り、彼女の家を訪ねた。しかし、ベルタは彼をフランス生まれの従兄弟であることを認めようとはせず、今後は家に来ないで欲しいと懇願した。理由は、従兄弟姉妹に会うと未だに心に残る悲しみと痛みが鮮明に蘇るからというものであった。ベルタ・ガルデスは、1943年7月7日に死去した。享年78。 こうして、エドアルドもエドアルドの弟ルシアーノも、そして他の兄弟達の誰もが、この沈黙のガラスを壊さないようにお互いに心に決めあったのである。それは、既にこの世を去った、ホセとベルタの二人の人格が傷つけれることを恐れたこともあるが、何よりも、ホセが教育者であり学校の共同経営者でもあるマリア・ルイサ・フレジアロと結婚して、カルロス・ガルデルとは異母兄弟になる6人の子供をもうけていたからである。 ベルタが死んだ翌年、ガルデルが死んで9年が経った1944年、ホセの弟エドアルドとルシアーノは、兄ホセと従姉妹ベルタの劇的な悲恋物語は、神の目を楽しませたかも知れないが、すでにこの世にいない二人の霊を落ち着かせるには、ガルデルの出自と、その後裔に関する真実について、さらに、ガルデス一族の助けも保護も無い中で、今では全ての大衆に深く愛されるようになった愛の結晶を育てた事などを、世間とまだ真実を知らない一族に公表しようと語り合った。しかし、エドアルドとルシアーノとしては、このことを公表する権利もないし、なによりも、当時自分達兄弟が兄ホセとベルタのために何の力にもなってやれなかった責任もあることなどから、具体的行動をとらないことを決めた。 その後20数年はガルデス一族の中で誰も、ガルデルの出生や父親に関する疑問を口にする者はいなかったが、の1967年の半ば、政府の教育委員会がある弁護士団体に対して、ベルタが持っていた筈の、相続人のいないガルデルの遺産の回収の可能性について調査を依頼した。これは、二つの推測に基づくもので、一つは、ガルデルの著作権は現行法律の規定により、遺贈する事は出来なかったはずなので、ベルタの死去後もそのままになっているだろうと言うもの、もう一つは、ベルタが死ぬ前の老衰状態にあったとき、遺産執行人アルマンド・デフィーノに、彼女が持っていた著作権と財産等をすでに贈与してしまっていたのではないかと言う、二つの相反する推測があったためである。この結末は、ブエノス・アイレス市の資料室や図書館にある当時の新聞記事よると、裁判所は教育委員会に対して、相続人のいないガルデルの財産の回収を不許可にした。アルゼンチンの法律による著作権の保護期間は50年なので、1985年でガルデルの全ての著作権は消滅している。 ブエノス・アイレスの新聞に上記の記事がでる前の1967年7月、イレーネ・ガルデス・デ・フステルと言うガルデルの従姉妹にあたる女性が、国会議員会館のクラブにおいて、ガルデルの従兄弟姉妹や親戚が集まる親族会議を招集した。会議の目的は、ガルデルの著作権などの経済的利益を求めるのではなく、一族が集まり、ベルタとガルデル親子がガルデス一族とを結ぶ絆を明確に証明できるような証拠を得る事であった。広間にはクラブの副会長で前下院議員のマヌエル・ロドリゲス・ゴンサーレス氏も出席していた。彼はガルデルの従姉妹のアンヘラ・ベニグナ・ガルデスと結婚していたので、ガルデス家の一員であった。この親族会議の結果、ベルタ・ガルデスは間違いなくホセ・ガルデスの従姉妹であり、ガルデルはこの二人の子供であることが確認された。出席者の両親や伯叔父母達の殆どは、その頃までにこの世を去っていたが、夫々が親たちから聞いていた話を披露するのを聞いた出席者達は、大家族の中に起きたとてつもない出来事に驚き、大きな感動に包まれた。 このときを境に、それまで謎とされてきたガルデルの父親が正式に母親ベルタの従兄弟ホセであると確認されたのである。 父親の謎とは別に、ガルデル本人の国籍の問題も謎の一つとされ、ガルデル神話の一部となっていた。しかし時の流れはあらゆるものを浄化し真実を曝け出すもので、国籍の謎についても例外とはなり得ない。以下の章ではガルデルの国籍に焦点を当て、真実を解明する。 |
ガルデルの本当の国籍は 以下の章をお楽しみに |