<カルロス・ガルデルの出生の真実>

第12章
複雑怪奇な国籍の話
 結論から先に言えば、国籍はフランスから一時便宜的にウルグアイになり、最後にアルゼンチンに帰化している。死んだ時のパスポートには 「Nacionalidad argentina (naturalizado):国籍アルゼンチン(帰化)」と記載されていた。一生の内に3回も国籍が変わった勘定になる。誠に複雑怪奇な話である。国籍が何処かということを論じる時には、身分証明書の出生地が何処になっているかを調べることが必要だ。ガルデルの身分証明書について順を追って説明する。

☆ガルデルの身分証明書(セドラ)
 アルゼンチンに住む人は、セドラを常時携行していなくてはならない。外国人はパスポートでよいが大きいので持ちにくい。長期に滞在する人はセドラを発行してもらう。セドラはクレジットカードとほぼ同じ大きさと厚さである。正面からではなく少し斜め前から写した顔写真を張り、親指の指紋が記録され、国籍欄はなく生国と誕生場所が記載されている。斜め前から撮るのは耳が写るからで、顔は整形ができるが耳の形は一生変えられないので、顔写真には必要なのだそうだ。有効期限はないが、人間は成長して顔や体型が変わるので一生に3回更新する。(筆者注:更新年齢は失念)。ガルデルのセドラは、小学校に入るまでに母親のパスポートに記載されている姓名で、出生地はツールーズと記載されたものが発行されていた。1893年3月11日のアルゼンチン入国管理局の母親ベルタとガルデルの入国記録は次のように記載されている。
 
「登録整理番号121。ベルタ・ガルデス。フランス人。寡婦。27歳。アイロン掛け職人。カトリック。パスポート番号94。登録整理番号122.チャールス・ガルデス。フランス人。2歳」。 

☆フランス本国からの徴兵逃れ
 1914年に第一世界大戦が勃発したため、フランス人男子の適齢者には招集令状が発せられた。すでに、歌手としてかなり人気の出ていたガルデルは、領事館から何時呼び出しがかかるかと心配していた。その悩みを知った彼のフアンである保守党党首のアルベルト・バルセロ氏や急進党の政治家達が、ブエノス・アイレス州警察署長クリスティーノ・ベナビデッスに働きかけ、カルロス・ガルデルと言う芸名を本名として、出生地をブエノス・アイレス州アベジャネイダ町生まれ(生年月日は本物)とした不実記載のセドラを発行させた。州警察はブエノス・アイレス市内(東京23区に相当する地域)の居住者には発行できないため、住所を市外にしたのである。(筆者注:アベジャネイダは東京に例えると多摩川を越えた川崎のような位置関係にある)。もしフランス領事から照会されても、このセドラにより”俺はカルロス・ガルデルと言うアルゼンチン人である”と反論できた。実際にカルロス・ロムアルド・ガルデスの名前で召集令状がきたかどうかは資料がないが、叔父ルシアーノ・ガルデス(父親ホセの4番目の弟で当時33歳)には、生まれ故郷のフランス・アベイロン県の県都ローデスの歩兵部隊への入隊通知がきているので、叔父より若いガルデル(24歳)にも本国からきていたかもしれない。大戦中はもとより、その後もこの不正に発行されたセドラで通していた。

☆セドラを紛失しウルグアイの偽出生証明を入手 
 数年後、ガルデルはこの貴重なセドラを紛失してしまった。どこかへ落としたのであろう。再び以前のセドラを傾向しなければならなくなった。既に戦争は終わっており、徴兵の心配はなくなっていたが、実質的には徴兵忌避と言うフランス国民としての義務違反を犯していたわけであるから、もしこの古いセドラからフランス生まれが暴かれ、領事館に通報されるようなことがあれば、逃亡罪でフランスに強制送還される心配があった。
 セドラを紛失したら再発行を申請するのが通常の手段であるが、元々このセドラは当時の警察署長が独断で発行したイレギュラーなセドラなので正規の発行記録などはない。さらには数年も前のことであり、その頃の経緯など分かるjはずもない。従って紛失したセドラの再発行は不可能であった。また、ブエノスアイレス市の警察本部で新たに申請するには、身分証明となる母親入国時のパスポートが必要となり、この線から徴兵忌避が暴かれるかも知れないと心配し直接申請する事はしなかった。色々頭を悩ませた末に手間はかかるがワン・クッションおいて、ウルグアイの出生証明書を入手し一時ウルグアイ人になることを思いついた。リミトロッフェと言うアルゼンチンとは陸続きの隣国間では、入出国に際してパスポートは不要であるし、身分証明の発行手続きなども、他の国の人に対するよりもずっと緩やかであった。
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