<カルロス・ガルデルの出生の真実> 第13章 ウルグアイ人から念願のアルゼンチン人へ ☆タクアレンボ生まれの出生証明書を入手 ラテン・アメリカ諸国の行政は全てトップダウン方式である。ましてイレギュラーなことを頼むにはトップに直接依頼しなくてはならない。1920年10月、出生証明書の発行をウルグアイ領事に直接頼み込んだ。本来なら領事館はタクアレンボ市役所の戸籍登録原簿に照会し、姓名、生年月日などがきちんと登録されていることを確認してから発行するものであるが、ガルデルは自分の出生を証明するものをなにも提示しないで出生証明書を手に入れた。これができたのは、ウルグアイ領事ベルナルド・ミラスと親しい人を介して、相当な謝礼を払ったことが容易に想像できる。全く別人になるため生年を3年早くした。”1887年12月11日タクアレンボ生まれ、カルロス・ガルデル”の出生証明書(発行番号10052号)が発行された時点でウルグアイ人になり、フランス人のロムアルド・ガルデスとは別人になった。国籍が出生地主義の国(南米は殆ど同じ)では、ウルグアイでの出生が認められたことで自動的にウルグアイ国籍が得られる。(日本人移住者の子供がアルゼンチンで生まれた場合、自動的にアルゼンチン国籍になるが、将来のために日本国籍を得ておこうと思ったら、出生後10日以内に領事館に届けなければならない。この期限には殆ど例外が認められないので、遠隔地であるとか多忙だったからとかで届けを怠ったために日本国籍が取れなかった二世も多い)。 ☆ウルグアイ人、カルロス・ガルデル この知恵を働かせた方法が、その後、ガルデルはウルグアイ生まれだとの間違った説(形式的には間違っていない)が流される原因になった。勿論ガルデル自身もフランス人だと言うことは、さきの徴兵忌避問題に繋がる恐れがあるので決して言わなかったこともある。ガルデル本人も母親ベルタも、親しい人や口答の遺言の中でだけ本当のことを打ち明けたのである。このような巧妙な手段でウルグアイの出生証明を入手したことが好事家に利用され、果てしない論争の元を創り上げ膨らんでいったものと思う。日本人のラテンアメリカ音楽の知識人の間でも、ガルデルはウルグアイ人だと信じ込んでいる人もいるようである。 ☆念願のアルゼンチン国籍を取得(帰化) ウルグアイの出生証明書を入手したガルデルは、1920年11月4日、喜び勇んでブエノス・アイレス市警察へ出頭し堂々とセドラの申請を行なった。ウルグアイ生まれの証明書により、国籍欄にウルグアイと記載されたセドラは容易に発行された。そして暫くウルグアイ人カルロス・ガルデルで通した後、1923年3月7日、このセドラを元にアルゼンチン国籍を申請した。帰化するための申請である。アルゼンチン在住のウルグアイ人ならば国籍取得(帰化)は容易であったと想像できる。同年5月1日、裁判官マルエル・デ・アンチョレーナ博士により、夢にまで見たアルゼンチンへの帰化が認められたのである。帰化登録番号1717/23号であった。 1923年10月8日、カルロス・ガルデルの名前で生まれて初めてのパスポートを入手し、11月15日には遂に揺籃の地ヨーロッパへ雄飛した(雄飛とは言っても飛行機ではなく汽船である)。これまでにブラジルとチリに旅したことがあったが、これらのリミトロッフェの国への入出国にはパスポートは不要だった。 この日から11年と7か月、ヨーロッパや北米での公演を通して、ガルデル個人の人気だけでなく、ブエノス・アイレスの港町の卑猥な歌、踊りとして蔑まれたタンゴの名を一躍世界に轟かせ、その芸術性を地球の裏側にまで輝かせたのである。 ここまでお読み頂いた方には、これまでガルデルの神話を創り上げていた”謎”の数々、すなはち”ガルデルの生年月日”、”出生地”、”両親の名前”、”国籍”の変遷などについて、解き明かすことができたのではないかと思う。しかし、チャカリータ墓地に眠るガルデル本人は果たしてなんと言うであろうか。右手の煙草をくゆらせながら、「本当の親父の名前や国籍なんかどうでもよいことさ、それより俺が本当に知りたいのは、メデジンで俺が乗った飛行機を落とした奴は一体誰なんだと言う事さ」 とつぶやいているかもしれない。 (メデジン空港の事故については、本ホームページの 「メデジン空港の事故の謎に迫る」 をご覧下さい) |
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