アルゼンチン・タンゴは黒人社会から生まれた 銀乃 川太郎 |
まえがき ・・・タンゴはハバネラ(スペイン語でHavaneraアバネーラ)の変身である。1870年〜1880年にヨーロッパからリオ・デ・ラ・プラタ植民地(現在のボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン)へやって来る船が、キューバのハバナ港に寄り、これらの船の黒人下級船員がハバネラをブエノスアイレスへ持ってきた。これがブエノスアイレスの港ボカ(注1)でカンドンベと混ざり、さらにミロンガと混ざって最期にタンゴになった・・・・ と、ボカの人々は、あたかもボカがタンゴの発祥の地のように言う。しかし、この話はそのまま受け取るわけにはいかない。なぜならば、ボカの住民達は元来、こと、ボカに関する限り狂信的な愛国者?(自称”ボカ共和国”というものをつくっていた)だからである。従って世界に有名なタンゴの発祥地は、なにがなんでも「ボカ」にしてしまいたいのだ。 ボカの”王様であり大統領”であったキンケーラ・マルティン(注2)にしてからが、「最初にアルゼンチンにやって来たスペイン人のペドロ・メンドーサが上陸したのは、わしの家が建っているこの場所だ」と、南米の天孫降臨の地を自分の家の場所とするほどなのだから。昔からタンゴの名作曲家を多く輩出し、ミロンガを踊り歌うボカ人が、タンゴ発祥の地は”我がボカである” と言うのも無理もない話である。 しかし、タンゴは確かにボカから世界にデビューしたものには違いないが、その発祥地は遠く中央アフリカのコンゴやアンゴラの黒人の踊りから始まり、「タンゴ」 と言う言葉そのものは、これらの地方の「黒人の踊り」 と言う言葉を意味するものであることは、あまり知られていない。この物語は、なぜ彼らの踊りをタンゴと言い、なぜ現在のようなタンゴがアルゼンチンで生まれたのか、と言うお話である。 (注1)ボカ La boca: ブエノスアイレス市南部にある観光地域。昔はここがブエノスアイレスの港であった。 (注2)キンケーラ・マルティン Quiquera Marti'n: ボカ生まれの世界的に有名な画家。 第1章 ネグロ(黒人)の歴史 1.最初の黒人達 まず、リオ・デ・ラ・プラタ植民地に輸入された黒人奴隷の歴史から述べる。この地方には、植民地ができたばかりの1600年代の初めから黒人が、インディヘナ(インディオのこと、インディオは蔑称)に代わる労働力として輸入されてきた。その代表的な文献として、1608年1月8日、カビルド・デ・ブエノスアイレス(ブエノスアイレス都市国家議会)は 『昨年来、流行病のため非常に多くのインディヘナが死亡し、著しく労働力が不足して物資の輸出入などに支障を来たしている。この労働力の不足を補うためアフリカから黒人を輸入することを許可願いたい』 とスペイン王に要請書を提出している。また、同じ頃、ラ・リオーハ市民も 『次第に少なくなり、いつかは絶滅するかもしれないインディヘナの代わりの労働力として、ブラジルからリオーハ市民一人当たり50人の黒人を輸入する許可を与えられたい』 とスペイン本国に申請している。これらが許可になり、アフリカから黒人がラ・プラタ植民地に輸入されるようなった。最初、黒人はポルトガルの奴隷船によって南米に連れてこられたが、その後スペイン王と英国の奴隷交易会社コンパニィーア・イングレッサ・デ・スールの間で契約ができ、英国船が中央アフリカから輸入するようになった。当時の奴隷売買風景をヘルパソーニ神父は次のように書いている。 『ブエノスアイレスの奴隷売買の市場は非常に大きなもので (現在のレティーロ駅の場所にあった)、イギリス船は毎回300人から400人の黒人をアフリカから連れてきた。黒人達は売られる前は牛馬と同じ(当時は牛馬と全く同じに見られていた)囲いの中に入れられ、彼らがそこでする大・小便の悪臭は、300米も400米も先から臭うほどだった』 |