第1章 ネグロ(黒人)の歴史 つづき

2.優遇された黒人
 ラ・プラタ植民地の黒人奴隷達は、北米の黒人奴隷達の悲惨な生活とは反対に、奴隷ではありながらかなり優遇されていた。これは、北米とラ・プラタ植民地(特にブエノスアイレスやモンテビデオ)の生い立ちの相違によるものである。すなはち。
 @ラテンアメリカ地域の植民地人は、人種(皮膚の色)に関しアングロサクソン(北米人)に比べて、かなり無頓着であったこと。
 A北米では綿や砂糖黍の栽培に大量の労働力を必要とし、牛馬の代わりに奴隷がこれに使われた。しかし、ラ・プラタ植民地では、こうした重労働を要する特殊産業はなく、主に家庭の仕事に使用されたこと。(ボリビアなどでは特殊産業として鉱山があったが、これには土着のインディヘナで十分間にあった)。
 ブエノスアイレス市やモンテビデオ市では、黒人はほとんど家庭労働に使われ、男はムカモ(下男)、女はムカマ(下女)が主であったが、時代が経つにつれて上流家庭などでは殆どあらゆる仕事を黒人がやるようになり、黒人のマジョルドーモ(家令、執事)なども現れ、その家の家事一切や、経営までも任される者もいた程である。女の方も、洗濯、炊事はもとより、乳母の役までこなしている者もいた。
  この黒人女性が乳母の役をしたことは意外と重大な意味を持っている。と言うのは、当時の上流社会ほど多くの黒人を使い、こうした黒人の乳母の乳で育った上流社会の人(後になってアルゼンチン独立の時に活躍した人々)の大部分は、幼い時には黒人の乳母から盲目的な母性愛を受けていた。このため社交に忙しく、余りかまってくれなかった本当の母親以上に、黒人との間に親密な人間関係が出来上がっていったのである。 このため、北米では白人と黒人奴隷とは、生活には常に一線が隔されていたのに反し、南米の黒人は、特に上流社会では奴隷ではあるが家庭の重要な一員でもあった。これがブエノスアイレスやモンテビデオでは、黒人が他の国の黒人と異なり優遇された大きな原因となっている。その上、1807年、ブエノスアイレスにイギリスの艦隊が攻めてきたときには、黒人達が大活躍をし、 何百人もの犠牲者を出しながらも遂にイギリス軍を撃退するなど、市街戦で大手柄を立てた。これにはブエノスアイレス市民は非常な感銘を受け、奴隷解放を早める原因にもなった。

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