第2章 カンドンベ 

1.即位式の踊りカンドンベ
 「カンドンベ」とは、ラ・プラタ植民地に輸入された黒人達の故郷、中央アフリカで王様または酋長の即位式の時の踊りが変化し、祭の日の踊りとなったもので、黒人達は新年、クリスマス、ディア・デ・レイジェス(東方三賢人の日)などの日に終日踊り明かした。「カンドンベ」 という言葉は、同じような時期にブラジルに輸入された黒人が、「カンドンプレー」 と言っていた踊りを、ブラジルとラ・プラタ植民地との交易が盛んになり、ブラジルから来た黒人が持ってきたカンドンプレーが変化したものである。、カンドンプレーという言葉の起こりは、踊りがクライマックスになると黒人達が一方で”オエー”と叫ぶと、もう一方が”ヤン・パン・ベエー”(エーにアクセントがある)と応え、これを何回も繰り返すものであったが、このヤン・パン・ベエーが段々変わってきてカン・ドン・ブレーとなり、最後にカンドンベと呼ばれるようになり、そのままカンドンベという言葉が定着したものである。
  これは黒人が叫ぶ声から付けられた名前であるが、一方でこの叫び声と共に叩く太鼓の音がタンタンと響くところから「タンゴー」、または「タン・タン」とも言われた。これが 「タンゴ」 という言葉の起源で
ある。(後程タンゴの項で詳しく述べる)。踊りは、タンタンと太鼓を叩きながら、先頭に神の使い(エチセーロ)、次に色々な飾りをつけた王と王妃(または酋長夫妻)が、家来その他大勢を引き連れて街を練り歩く。行列は男女が2列に向き合い、すり足で拍子をとり、楽器に合わせて時々体を接しながら(腰の辺りで体をつけあう)、オエー、ヤン・パン・ベエー、カンドンベーと叫び踊った。

2.ローサスの保護
 アルゼンチンでカンドンベが一番盛んであったのは、”暴君(と言われた)ローサス大統領”(注1)の専制時代である。ローサスの保護があったため、黒人達はカンドンベを大いに楽しみ、毎日曜日踊りに興じていた。ローサス自身も、新年、クリスマスの夜などには変装して、官邸の裏門から抜け出し、腹心の黒人のお供(彼は黒人の方を信用していた)を2,3人連れてモンドンゴ地域(注2)にお忍びで出かけ、踊りが終わるまでいつまでも見ていたと言う。勿論、この時のカンドンベはモンドンゴ地域を初めとする黒人のグループの王様の即位式なので、ローサスとその家族は、この即位式に招待されていたわけである。ローサスが黒人を可愛がって彼らのお祭りの中に何回も行ったので、愛嬢のマヌエリータも2回ほどボカを訪問している。歴史家は、『ローサスとしては、まさか当時、住民の食事は犬の餌よりもひどいと言われていたモンドンゴには、マヌエリータを連れて行くわけにはいかないので、少しだけカテゴリーが上のボカへ連れて行ったのだろう』と言っている。
  歴史家によると、ローサスが黒人達を愛したのは、やはり彼が幼少のころ黒人に囲まれて育ち、青年期はガウチョの中で暮らしたためで、政権を取ってからは、権謀術策を用いて上べでは奇麗事を言っても、裏に回ると人を陥れようとする上流社会人種よりも、自分が成長したガウチョの社会を愛し、それ以上にまた無知文盲ではあるが正直な黒人を信用したのであると言われる。
(注1)フアン・マヌエル・ローサス。Juan Manuel de Rosas 統治1829〜1852
(注2)モンドンゴ地域;今の地図には出ていないが、ボカに近いと書かれているので、リアチュエロ川に近いブエノスアイレスのなかでも一番貧困層が多かった地域ではないかと思う。ボカはブエノスアイレス市の南端になる。

3.ハドソンとローサス
 ハドソン(注)は彼の代表的な著書 「はるかなる国、とおい昔」 の中でローサスのことについては相当な項をさいている。それには、彼の父が大のローサス贔屓であり、ハドゾン家の応接間にはローサスの肖像画がかかっていたこと、ローサスの目鼻立ちとブロンドの髪のため 「英国人」 だと思ったことなどが書いてある。その最後の方には、ローサスの失脚の元になった、カセーロスの戦いについても書いているが、ローサスの人格について 『父がローサスに対して抱いていた高い評価を、素直に私へも受け入れさせた今一つの要因は、ローサスにはいろいろな逸話があって、私のあどけない想像力を力強くかきたてたことである。逸話の多くはローサスが、卑しい身分の人に変装して夜中に密かに街を徘徊し、とりわけむさ苦しい貧民窟を訪れては、あばら家に露命を繋いでいる貧しい人々と親しく接する、と言うお忍びの物語であった。』 と言う記述がある。この”とりわけむさ苦しい貧民窟”とはいうまでもなく、黒人の住んでいる地域である。もっともハドソンはすぐ後に、どうせこんな話は根も葉もない作り話かもしれない、とも言っている。しかしこれらのことは事実であった。このほかにもハドソンは、ラ・プラタ川川岸の洗濯場に集まるラバンデーラ(洗濯女)のほとんどが黒人であり、黒人の女の常としてとてもお喋りなので、騒がしい水鳥の群れがどこかの沼に集まりガアガア言っているようだ、との一節もある。ローサスのことからハドソンへと話が反れたが、いずれも黒人に関することなので特に述べた。
(注)ウイリアム・ヘンリー・ハドソン:(1841〜1922年)、アルゼンチンのキルメス地方でアイルランド移民の子として生まれる。15,6歳から文学に親しみ鳥の習性を研究、この頃、間接リウマチに心臓を冒され生涯の持病となる。1874年英国に渡り再度アルゼンチンには戻らなかった。1900年英国に帰化、1918年「はるかな国、とおい昔」を発行。

4.モンテビデオの記録
 モンテビデオでは、マキシモ・サントス将軍が大統領だった時代(1880〜1886年)にカンドンベが盛んで、各地域の黒人達は自分達の王様を選出し、サントス大統領のところへ挨拶に行き、大統領も直接彼らに会って即位式に立ち会ってから、踊り始めたことが記録に残っている。こうしたアフリカの王様や酋長の即位式を真似した祭り(王様は単にカンドンベの儀式の一つの形式として有力者が選ばれるにすぎない)が、新年、クリスマスにはモンテビデオ、ブエノスアイレスの両市でほぼ同じような形で騒々しく行われた。一番盛んであったのは、やっぱり、ローサス大統領の時代であり、彼の失脚後はブエノスアイレスでは急にこれが衰え、その後さらに、黒人1世の人口が老齢化や流行病のため急激に減ったりして、1885〜1890年頃には即位式によって始められるカンドンベ祭りは段々と廃っていき、カーニバルでムラータ(白人と黒人の混血児)や白人の仮装をしたものに混じって、僅かにカンドンベが踊られる程度になっていった。


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