第3章 タンゴ つづき

3.のんびり育った例
 クリオージョがのんびり育った風景は、ハドソンもその 「はるかなる国、とおい昔」 のなかで、ハドソン家から一番近い英国出身の隣人のロイドさん一家のことを次のように書いている。 『・・・また、ロイドさんの妻のドーニャ・メルセーデスは、二人の娘と4,5人の召使達に取り巻かれるのが好きでした。彼女ら召使は全部生粋の黒人で、よく肥えて愛想が良い女、おかしがりやの若い女、そして中年の黒人女達でした。彼女らは結婚していませんでしたが、2、3人は家の端にある女中部屋の前で遊びまわっている黒んぼの母親達でした。・・・』。
 さらにまた、ド−ニャ・メルセーデスの二人の娘についても、『・・・末娘のアデリーナが、黒人の女中の子リベラータと揺り篭の中から互いに睦みあい育ってきて、いつも影身離れず互いに腕を首に投げ掛け合いながら、ドーニャのそばに立っているを見ると、えも言われぬ一幅の活人画のようでした。・・・』 とも書いている。これは、パンパに住む一家庭の黒人の場合であるが、黒人とても2世ともなると、1世よりのんびり育ったことは間違いない。のんびりと育ち、先天的と言っても良い音楽的な素質を1世から受け継いだ黒人クリオージョが、新しい音楽を作り出したことは何も不思議なこではない。

4.タンゴの発祥
 1世の黒人は彼らの郷里、遠いアフリカからカンドンベをそのまま持ってきた。それは彼等の王様や酋長の即位式の踊りであり、これを踊ることによって、故郷を偲び郷愁を慰め合い、また楽しみあったのである。しかし、若い世代のクリオージョ達は、2世であるからアフリカには何の郷愁も感じない。カンドンベはただ踊りとして楽しんだに過ぎない。そのうち、1848年に奴隷完全廃止令が出たり、老齢になって自然に死んでいったり、流行病などのため1世が段々と少なくなり、クリオージョの時代になると、彼等は各所で小さな楽団を作り、自家製の楽器を持って自作自演の曲を演奏し、日曜、祝祭日などに街をねり歩いて楽しんだ。この頃には、もう”カンドンベ・クリオージョ”と呼ばれ、一世が持ってきた初期のカンドンベ(クラシック・カンドンベとも言われた)とは違ったものになっていた。当時一番名の知れたグループは、1867年にモンテビデオで組織された「ラサ・アフリカーナ」という楽団であった。ラサ・アフリカーナ楽団は、男は白い麦藁帽、赤い上衣、真っ白いズボン、革の長靴、女は白いベレー帽、赤いブラウス、真っ白なミニスカート、ボタン付の革長靴という中々ダンディな服装で、ギターやバイオリンを抱え、軍隊用の太鼓を先頭にパソ・ドブレなどを歌い、踊りながらモンテビデオ市街をねり歩いた。
 政府要人や高官、高級軍人などの住宅の前では、彼等の自作の詩 (当の高官達を称えたものや、その頃の風物、その他のロマンスなどを詠った)を織り込んだものを高唱したりした。この楽団がカーニバルの夜、自分達の最も得意とするカンドンベの曲を ”タンゴ” と称して、楽団の先頭に立つ仮装した団員が、紙に書いたその歌詞を見物人に配って歩いた。タンゴと言っても音楽はカンドンベそのものである。当時の黒人クリオージョはオタマジャクシ(音譜)などは分からないから、勝手に彼等の天才的音楽の才能を生かして、黒人の歌手が声高に歌い、また勝手に伴奏したにすぎない。これを 「エル・ソーロ」 と言って、歌手が一節歌うと続いて楽団員全員が合唱し伴奏したのである。
  ラサ・アフリカーナ楽団が演奏するタンゴは、こうした風潮の中で生まれたが、これが、ラ・プラタ植民地で踊られた最初のタンゴであり(タンゴという文字が公文書に表れたのはもっと古い)、ゆっくりした ”ガート” に似ており、カンドンベ・クリオージョの基になったクラシック・カンドンベに似ていた。「ラサ・アフリカーナ楽団のタンゴが始まると、見物の黒人達は、これこそ自分達の踊りだといわんばかりに、生き生きとした顔で踊り、上流社会の人(白人)も ”新しい音楽タンゴ”でカーニバルの夜を愉快に過ごそうと競って踊りだした」 と、当時の光景を描いた文献もある。
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