第3章 タンゴ つづき

7.兵営からも生まれた
 ラサ・アフリカーナ楽団が活躍した頃は黒人のバリオ(地区、地域)には各所で小楽団ができ、祭日はもちろん毎週土曜日、日曜日にはお互いに腕(曲)を競い合ってドンチャン騒ぎをした。こうしたことから、軍隊の中からも有名なカンドンベが生まれている。勿論黒人クリオージョの兵士が作ったものである。この章の冒頭にも書いたが、独立戦争以前から黒人クリオージョは、親から受け継いだ特徴である、服従の精神と強靭な体力を、最大限に発揮できる軍隊に多く入った。そして、この特徴により白人の上官やカウディージョ(頭領、ボス)から、ローサス将軍時代のように大いに可愛がられた。
 彼等は一般社会の黒人仲間が楽団をこしらえて、楽しんでいるのを見て、「シャバの奴らに負けるもんか」 と言うわけで、兵営の中でも楽団を作った。さしづめ昔の日本の軍隊であれば、厳しい規則をたてに上官から 「楽団などをを作る暇があったら馬小屋でも掃除しろ」 と叱られたところであろうが、ラ・プラタ植民地の場合には上官の方が喜んで大いに奨励しているし、他の部隊の将校に向かって 「どうじゃ、俺の部下はうまいもんじゃろう」 と言うようなことを言って自慢をしたと言う話も残っている。もっとも、ラテン系民族は皆音楽好きということも大いに影響しているが。この軍隊チームの中で有名だったのがモンテビデオの騎兵隊に属する黒人クリオージョが組織した「ロス・バンバ」楽団であった。これがカンドンベ・クラシコの特徴を取り入れて「バンバ・ケレー Bamba quere」という曲を作ったが、黒人以外の一般人にも受け、「ロス・バンバ」 は其の楽団名を呼ぶよりも 「バンバ・ケレ」で通るほどになり、その後も長くモンテビデオ市民に愛唱された。


8.チーナと兵隊
  「ロス・バンバ」楽団には世間の楽団と同じように女歌手がいて、カルナバルには街をねり歩いた。兵営の中に女がいたのかと不思議に思うだろうが、当時の軍隊には黒人兵士(大部分が下級兵士で、せいぜい軍曹どまり)の女房やその娘達が兵営の周囲で暮らしていた。チーナと呼ばれた彼女達は ”いざ鎌倉”というときになると、看護婦になったり、後方部隊を組織して前線へ弾薬を運び、食料の運搬をしたり、危急の場合には兵隊と同じように銃を持って戦闘に参加している。このチーナ達(チーナとは原住民の女達のことを言うが、後には黒人女性のことも言うようになった)は、軍隊と一緒に生活していたため「クアルテレーラス」(兵営の女達)とも言われた。平時には兵営の周りに作った小屋に住んで夫の世話をしていた。要するに一家全部が兵隊だったのだ。
 ウルグアイ大統領ホセ・F・リベーラ将軍(1830〜34および 39〜43)は、ローサス将軍の軍隊とカガンチャで戦ったとき、ネグロ・クリオージョの兵は勿論、チーナに至るまで全部隊を率いて戦場に臨んでいる。こうして戦時には共に危険を冒し、平時には楽団の仲間に入り、ネグロ・クリオージョと苦労や楽しみを共にしたチーナの姿は、ラ・プラタ植民地の特異な風俗として、歌に劇に、そして小説にも取り上げられている。

9.モンテビデオより遅れていたブエノスアイレス
 ブエノスアイレス側でも当時楽団は多くあった。しかしこの楽団は、1世のカンドンベの風習を殆どそのまま受け継いだもので、祭日には各楽団が彼らの選出した酋長夫妻または王様や王妃(儀式用の)を先頭に立て、白人の旧家や金持ちの家に押しかけ、何がしかの寄付を貰うという、アフリカ伝来のカンドンベの域を出ていなかった。楽団の服装も、モンテビデオのラサ・アフリカーナ楽団からみると、比べ物にならないほと貧しいもので、殆ど普段の服装で、僅かにリーダーがコケおどしの飾りを頭や首につけただけであった。しかし、1868年ごろともなると、モンテビデオの風習も入ってきたうえに、カーニバルにはブエノスアイレスの名門(白人)の青少年達が、黒人と共にグループや楽団を作り、黒人クリオージョの真似をし、顔を真っ黒に塗って街中を踊り歩いて盛んなものとなった。この中で、「ロス・ネグロス」と「ロス・ネグリートス・エスクラボス」と二つのグループが有名だったが、後者のチームには後にアルゼンチン政界に名を売ったアルシーナもいたと言う。
 名門の青少年達が入った動機はと言うと、ニーニョ(名家の息子たちはこう呼ばれていた)達は、たいてい幼い頃は黒人の乳母に育てられ、時には乳母の子供と一緒に相当大きくなるまで育っている。この乳兄弟の黒人が楽団を作り、街の練り歩く姿がニーニョ達にも面白く見え、自分達も一つやってみたいなあー、と思うようになった。だが、いくら黒人と一緒に家の中では育てられても、公衆の前でこうした踊りを、名門のニーニョ達が黒人と一緒に踊ることは、当時のモラルでは許されないことであった。だからニーニョ達が黒人と混成楽団を作ったのは、正確な年次は分からないが、前記のように1868〜69年頃のことだと思われている。
 グループは英国人の服装を真似し、そのうちのニーニョ達は、わからないように顔を真っ黒に塗り、わざと黒人訛りを強調したスペイン語を使ったが、楽器を弾くのは例外なしに黒人クリオージョだった。ニーニョ達はカンドンベ用の楽器は得意ではなかったのだ。やはり、名家や旧家、金持ちなどのところを訪問してカンドンベを演奏したが、このニーニョ達が加わったグループである「ロス・ネグロス」や「ロス・ネグリートス・エスクラーボス」はどこででも大受で、中にはその家の令嬢が待ち受けるという風景も見られた。名家のニーニョが混じっているのを密かに知っていたし、おおっぴらに騒げるのはこの時だけだったから、令嬢達も楽しみにしていたのだろう。このグループの歌は、なかなか凝ったものができて人気が出た。当時、各楽団がつくる歌は、流行した曲を勝手に使ったり、黒人の天才的なインスピレーションによったものである。「ロス・ネグロス」はラファエル・バレーダ作詞ミゲル・M・ローハス作曲の「エル・ティオ・カニジータ」と「ロス・ドス・シエゴ」という二つのタンギートを発表して有名になった。二つともタンゴ・ハバネーラを基にした同名の劇からとったものだと言われる。
 このタンギートは、やさしく愉快な踊りだった。グループの黒人男性と黒人女性が向き合って歌と音楽に合わせて、手足を交互に振って拍子をとりながら前進したり、後退したりするもので、この踊りはキューバの黒人の踊りを真似したもので、当時ブエノスアイレスを訪れたキューバの劇団から習ったものだと言われている。カーニバルの午後、ニーニョ達はこうしてブエノスアイレスの街々を一回り踊り歩いてから、今度は本式に彼らのグループである踊り場に向かい、またひとしきり青春を謳歌していた。
次のページへ