第4章 ロス ルウボロス 1. クリオージョ・ブランコのグループ誕生 今まで述べてきた 「ラサ・アフリカーナ」 をはじめ 「ロス・ネグロス」、「ロス・ネグリートス、エスクラボス」、「ロス・パンパ」 などは黒人クリオージョだけか、またはこれに名家の子供達ニーニョが黒人に変装したのが混じって作られたグループだったが、1874年のカーニバルにはモンテビデオで最初のクリオージョ・ブランコ(白人クリオージョ)だけのグループ 「ロス・ルウボロス」 が誕生した。モンテビデオの商人などの子供達によって構成されたこのグループは、顔を真っ黒に塗り、キューバやブラジルの黒人奴隷の服装を真似して、半ズボンと短いシャツ、頭を色々な色の大きなハンカチでしばり、縁の広い大きな麦わら帽を背中につけて、タン・タン(太鼓)はもちろん、その他にも黒人クリオージョが使う楽器を皆が持っていた。 踊り歩くときには、カンドンベ・クラシコの真似をして、彼らの団長を王様に仕立てて真ん中におき、先頭には音楽に合わせてバストン(杖)を振るバストネーロがいたが、当時はバストンの代わりにエスコーバ(箒)の柄を持ったので、彼らをエスコペーロと言った。このグループは白人の子供ばかりで作られていたのだが、黒人の動作の真似は真にせまっていて黒人訛りのスペイン語(ボサルと言う)もそっくり本物と変わりがなく、当時多くあった黒人クリオージョのグループよりも黒人らしかった。ルウボロスはカーニバルで、黒人クリオージョから習ったカンドンベを、黒人訛りのスペイン語で歌いながら街を練り歩いた。黒人訛りのスペイン語は、彼らが街を練り歩いて金持ちの家や名家の門前で、ひとくさりその家を褒めあげたり、あるいは、当時の社会情勢を政府要人の家の前で皮肉ったりする時にも使われた。この時代は一般常識として、社会情勢の不平不満を言ったり皮肉ったりすることはタブーだったが、カーニバルの時だけは特別に無礼講であった。 2. 黒人の自由を歌う ロス・ルウボロスは年毎に有名となり、モンテビデオのカルナバルでルウボロスのグループが街に現れると、街中の家の窓という窓はもちろん、舗道も全部これを見ようとする群衆で一杯になり、さらには女の子達がグループの周りを取り囲み、ルウボロスと同じように踊ったり、歌ったりしながらどこまでもついて歩いた。こうした凄い人気が生まれた理由は、彼らのタンゴ(カンドンベ・クラシコのような)の歌が、当時の人々の心を打ったからである。さらには、黒人の真似があらゆる点で上手であり、多くの黒人だけのグループよりも、ずっとあか抜けしていたのも人気の出る原因の一つであった。 当時、モンテビデオやブエノスアイレスなどラ・プラタ川流域の地域では、すでに奴隷は解放されていたが、キューバなどではまで奴隷制度が厳然として残っていた。そしてキューバからの船が入る毎に、キューバの黒人からいろいろな痛ましい話を聞かされ、モンテビデオの黒人達は大いに憤慨したり同情したりした。そのこと(黒人が自由を望むこと)を、ルウボロスは白人のグループでありながら曲目として多く取り上げ巧みに歌った。 その代表的な曲がキューバの黒人を主題とした 「ポーブレス・ネグロス・クバーノス」、「エスクラボス・クバーノス」、「イホス・デ・クーバ」 などであり、モンテビデオの黒人達に歓迎され、一般市民にも大いに愛唱された。これは当時高まっていた自由思想とヒューマニズムの精神に上手くマッチしたからである。このためルウボロスのグループは、年々発展し評判が高まって行ったので、各地でこれを真似るものができ、1874年から1900年代までの約25年間にわたり、ルウボロス・ブームの時代が続いた。それにもかかわらず、ルウボロスの名が消えるようなった原因は、余りにも多くのグループがその名にあやかり、いい加減な歌や、ただやかましいだけのドンチャン騒ぎをしたため、次第にモンテビデオ市民の顰蹙を買い、飽きられ、遂に衰退したのである。 3. ロス・ルウボロスの創設者はアルゼンチン人 「タンゴ」の発生に重要な役割を果たしたロス・ルウボロスの創設者は、アルゼンチン生まれのベルナルド・エスカーラと、英国人のグレーウエルが創設者で、エスカーラが最初の団長になっている。ルウボロスという名は、グレーウエルが命名したものだが、彼がブエノスアイレスにいた時、黒人居住地区が各所にあって、彼らは故郷アフリカの地名をその地域の名前としていた。その中にルウゴラまたはルウボラというのがあった。(コンゴにはルウコラという川があり、この川の流域から多くの奴隷が南米に輸出された)。その後グレーウエルがモンテビデオに移り、カルナバルの楽団をつくる時、このルウボラという名を思い出した。ルウボラは女性名詞なので、これをルウボロスと男性名詞複数形に変えた。このグループには女性が一人もいなかったからだと言われている。 4. 当時の状態は現代タンゴとは程遠い感がある ルウボロスがモンテビデオに生まれた頃には、ブエノスアイレスでは第3章の9項で述べたように「ロス・ネグロス」や「ロス・ネグリートス・エスクラボス」の黒人と白人の混成グループが人気絶頂であった。 しかし、モンテビデオにルウボロスが誕生したと言う情報は、すぐにブエノスアイレスにも伝わり、まず黒人クリオージョがこれを見習った。1876年には白人の子供達が 「ロス・ネグロス・アスーカレス」と言うグループを作り、老いた黒人が自由を望んでいる様子を表わした仮装をしてカーニバルに出ている。しかし、モンテビデオとブエノスアイレスでは、タンゴの発達の経緯には相当な差があり、ブエノスアイレスではルウボロス式の「タンゴ」ではなく、昔からのいわゆるカンドンベがまだまだ主流であった。「ラサ・アフリカーナ」や「ロス・ルウボロス」のタンゴにしても、また、ネグロス・ポルテーニョス(名家の子弟が混ざった)のタンギートにしても、20世紀始めにヨーロッパへ進出して、ヨーロッパ人の間に、その品位を巡って様々な論争を引き起こした、カルロス・ガルデル時代の「アルゼンチン・タンゴ」と比較すると、その愛好者の規模や大衆の関心の度合いには相当な開きがある。この時代の状態が、現代のタンゴに結びつくまでには、ミロンガの存在を忘れてはならない。 |
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