第5章 ミロンガ つづき 3.パジャーダとミロンガ パジャーダとミロンガの関係をもう少し述べると、アルゼンチンではパジャーダ、またはパジャドールという言葉は、カント(歌)またはカントール (歌う人)の同義語として多く使われている。これは、吟遊詩人として最も有名なサントス・ベーガがパジャドールであり、生まれながらのカントールであり、唄いながら死んだという言う話が元になっている。しかし、ウルグアイではこれを少々区別している。(アルゼンチンの史家にも区別するのが本当だと言う人も多い)。というのは、パジャーダとは、本当に自分自身の心の中から湧き上がってきた感傷、自然を見て感じた感情、それに恋の喜びなどのインスピレーションをそのまま言葉にしたものである。一方、カントールというのは、誰かが作った歌、あるいは人から習った歌を唄うだけである。そこには人間の本当の心の動きはないからだと言う。。 実際のところは、パジャドール(吟遊詩人)とカントール(歌手)とは違う、と言う説が正しかったのであろうが、それは、詩人や歴史家が言うことであって、黒人クリオージョにとっては関係のないことであった。彼らはそんな難しいことを言うよりも、それこそ本当に思ったことをそのまま、好きなチーナの前で即興詩を作り、それを歌ったりしながら大いに飲み、騒げばよかったのだ。チーナの部屋が、このため最後にはバルージョ(大騒ぎ)になったのは容易に考えられることである。そこで、結局ブラジルから入ったバルージョの同義語「ミロンガ」が「パジャーダ」と同じように使われ、しまいにはラ・プラタ植民地の言葉になってしまったのである。 4.オリジェーロ 前章で、始めはチーナの部屋でネグロ・クリオージョの兵卒が、ささやかにやっていたミロンガに、一般市民も加わったと述べた。この一般市民であるが、これも主にネグロ・クリオージョであり、モンテビデオでは普通 「オリジェーロ」 と呼ばれる人達だった。オリジェーロとはオリージャ(川岸の意:注)に住む人と言う意味で、当時、ネグロ・クリオージョをはじめ、下層階級の人達が多くオリージャに住んでいたのでこう言われた。今で言う差別用語である。モンテビデオでは、オリージャのことをバリオ・バホ(下町)とも言った。ブエノスアイレスではバリオ・モンドンゴが有名である。オリジェーロは、オリージャ一帯の広い地域に住んでいたが、地域によってアフリカの彼らの出身国の名をつけたナシオン(何々国人会と言うようなもの)やソシエダ(何々県人会のようなもの)を構成していた。 (注) ここで言う川とは、ラプラタ川のことであるが、一般的には町外れ、場末を指す。 ミロンガの騒ぎがどこかの家で聞こえてくると、ちょっとひと踊りするか、とばかり、地域の住民が続々と集まった。弾かれる曲は、ワルツ、マズルカ、ポルカなどであり、もとは殆どがヨーロッパから入ってきたものである。だが、彼らの弾くのは正式に習ったわけではなく、みな外国人が弾いているのを聞き覚えで覚えたものなので、時が経つにつれて段々とクリーオージョ的な感覚がこれに加わり、オリジェーロがミロンゲアール(ミロンガを踊る)のために弾くようになったときには、完全にクリオージョの独自の音楽になっていた。 踊りは男女が抱き合って踊ったが、これを”ア・ラ・フランセッサ”と言った。フランス・モードと言うわけだが、この言葉でも分かるように、カン・カンが踊られ始めた時代の、パリから輸入された踊りを真似したものである。しかし、パリの踊りを真似したオリジェーロのア・ラ・フランセッサは、本場フランスの踊り方とは大きな違いがあった。当時のパリの踊りでは、常に女が後ろに下がり、男が踊りながら大きくホールを回る形式の踊りであった。モンテビデオでも普通の家(白人家族)では、男女が体をピッタリくっつけては踊らないが、オリジェーロのミロンガとなると、気心の知れた、程度の差によって違いはあるものの、男女がぴったりと抱き合って踊った。この頃からやっと現代のタンゴの踊りの片鱗が、ところどころで見られるようになってきたと言える。しかし、今のように途中でくるくる旋回するような踊りではなく、常に女が後ろに下がり、大きくホールを回るというようなものであった。 5.ラ・ダンサ オリジェーロがミロンガを踊るときは、ワルツ、マズルカ、ポルカなどの曲が流れ、男女はフランス・モードで抱き合って踊った。その中で最も彼らに受けたのは、元は大アンティル諸島のネグロ・クリオージョの踊りだったのが、フランスに移入され、再びモンテビデオやブエノスアイレスのラ・プラタ流域に逆輸入されてきた「ラ・ダンサ」であった。今では、ラ・ダンサ(ダンス)と言うと「踊り」、いわゆるダンス全般のことを指すが、元はラ・ダンサと言えばネグロの踊りの一種か、またはネグロの各部落を代表する踊りのことであった。ちょうど日本で、各地方に阿波踊りとか安来節の踊りがあるように、ローカル・カラーを表す踊りに相当したものである。現代の、いろいろな踊りを総称するような言葉ではなく、踊りの一つの種類を表すものであった。その頃のパリでは、有名なカンカン踊りが流行し始めた時代で、大アンティル諸島からの船乗りがこのダンサをパリに持ち込み、パリっ子が早速それをサロンで踊れるように、上品でかつ官能的な踊りに作り変えた。このダンサが、やっとミロンガができ始めた、と言うよりミロンガという言葉が使われ始めたばかりの、ラ・プラタ流域に持ち込まれて、オリジェーロが最も好む踊りとなったものである。「ダンサ」と言う言葉も、やはり大アンティル諸島のネグロが使ったボサル(ネグロのスペイン語)であり、ネグロの船乗りによって、ラ・プラタのオリジェーロに伝えられたものと言われる。ラ・ダンサはカンドンベと同じようにネグロの踊りではあるが、一度パリに渡り、サロンで男女がカップルで踊れるように作り変えられただけに、カンドンベのようなむき出しの、騒々しさはなく、情感豊かな、と言うよりむしろ官能的なものであった。ラ・ダンサを踊るオリジェーロの光景を、1836年にキューバ人評論家:エステバン・ビジャルドと言う人が書いた本には次のように記されている。 『オリジェーロのカップルは軽く抱き合いながら官能的な曲に合わせてゆっくり踊った。サロンで多くのカップルが踊り始め、お互いに押したり押されたりするときには、官能をゆさぶる心地よい刺激がカップルの体を伝わった。女達にとっては、このダンサを踊っている間に、意中の男にその心の中の思いを打ち明ける、もっとも良い機会であった。いくら好きであっても、女から男に恋を打ち明けることは、はしたない行為だと思われた時代だった。しかし、ダンサでは一言も言わなくても、体で心の動きを伝えることができる。以心伝心という言葉があるが、抱き合っているだけに、ちょっとしたコケティッシュな身振りや表情だけで、相手にすぐ意中の想いを伝えることができた。また、男の場合はそれこそ単刀直入に、恋を打ち明けるにはもってこいの場所であったことはいうまでもない。ラ・ダンサでは、美醜の別なく女達は恋のために、皆輝きを増しているように見えた。こうして、オリジェーロの、特に女達の人気を得たダンサは、瞬く間にモンテビデオやブエノスアイレスのサロンを風靡するほどの大流行をきたした。本家のアンティル諸島でも、最も人気のあったこの踊りは、名家や富豪の人々が行く立派なダンスホールをはじめ、場末の黒人の汚い小部屋でもダンサが見られた。大アンティル諸島のネグロ・クリオージョ達は、ラ・ダンサに特別の情熱を注ぎ、次々と新作を発表して、ますますその人気をあおった。新しい作品は常に変化に富み柔軟性があり、快活なところがある一方で、センチメンタルであり、またロマンスも勿論忘れずに織り込まれていた。ラ・ダンサはネグロ・クリオージョのため、全身で感じるように作られたもののようであった。』 |
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