第5章 ミロンガ つづき

6.ハバネーラ(スペイン語でアバネーラ)
 昔から港々には船乗り相手の酒場やキャバレーが必ずあったが、モンテビデオやブエノスアイレスもその例にもれず、下町の港に接する場所にはバーやキャバレーが多かった。この界隈の女達は、白人系のクリオージャが多く、世界中の船乗りを相手にする必要上から、たいていの女が数か国語を話した。この女達とキューバの船乗りによって、ハバネラがラ・プラタの流域に広められた。
 キューバの船員は大部分が黒人で、当時キューバとモンテビデオ、ブエノスアイレス間の貿易が盛んだったため、この二つの港にはいつも彼らの姿が見られた。キューバ人の船乗りは港に着くと、すぐ下町の行きつけのバーで一杯やりながら、女達と一緒にお国ぶりを発揮した「ラ・ダンサ」を踊った。このラ・ダンサをオリジェーロは 「ダンサ・クバーナ」 または 「ハバネーラ」 と呼んだ。ハバネーラは始め港の酒場で踊られていただけだったが、踊りのことなら何でも器用にこなし、クリオージョ化しなければ気のすまないオリジェーロ達は、ハバネーラをまたたく間に自分達のものにしてしまった。
 最初、ハバネーラがキューバ人船乗りによって踊られたときに、オリジェーロには、それが非常に動きが早く、身のこなしが柔らかで変化に富んでいるのを見てびっくりした。モンテビデオではそれまでパリから入ってきたラ・ダンサを、ア・ラ・フランセッサ(フランス・モード)でゆっくりと踊って楽しんでいたのだから、動きの早い新型の踊りを見せられて驚いたのも無理もない。しかし、オリジェーロにとっては、始めはとっつきにくい踊りだったので、彼らの趣味に合うように変える必要があった。勿論彼らは正式な振り付けや作曲の方法などは知らない。しかし、先祖代々踊りに関する天才的な才能を受け継いだ彼らのことだから、少しくらい形や曲を変えることなどは何でもないことであった。

7.ケブラーダとコルテ
 新しい形に作り変えられたハバネーラが港の周辺で踊られたが、すぐにチーナの部屋にたむろするミロンゲーロ達の知るところとなった。このような環境でネグロ・クリオージョがハバネーラの踊りの中に作り出したのが、「コルテ」と「ケブラーダ」 と言う二つの踊りの型である。ハバネーラが入ってきた頃チーナの部屋に集まる連中は、もうミロンゲーロをするだけはなく、少し高尚な踊り研究会というようなグループになっていた。この中のマエストロ(作詞作曲家とか楽団のリーダー)連中が、ハバネーラを改良してクリオージョ化してしまったので、彼らの歌の代名詞であるミロンガがハバネーラと同義語になってしまった。そのうち、オリジェーロがミロンガ=ハバネーラを踊りだすと、中には一つ上手な所を見せて、仲間をアット言わせてやろうと言う人間が現れてきて、様々なアクロバティック(軽業師のような)踊りをして見せるようになった。こうした環境の中から生まれたのが、「ケブラーダ」と「コルテ」である。
 黒人は非常に柔軟な体を持ち、特に踊りの時には様々な変化をつけて踊るのは、映画などで良く見られるものだが、彼らはそれがアクロバティックである程自慢したようだ。ケブラーダの言語は、踊りの連続動作をケブラ(quebra;折る)する、と言う意味で、今までスムースに踊っていたカップルが、急にパット向きを変えたり、または、一瞬停止したりして、曲または踊りそのものをケブラするように感じられたことからこの名が生じた。
 コルテもやはり、ケブラーダと同じような動機から生まれたものであり、仲間に器用なところと見せようとした者が始めたものである。ミロンガ=ハバネーラを踊りながら、足をすばやく交差して見せた(相手の足と交差させるのではない)もので、これが踊りの行進をコルタ(corta;切る)するように見えたところからこの名がついた。これは後にタンゴにも受け継がれ、初期のタンゴにはこの式のものが多い。
 しかし後には、上手なカップルが器用な足技を使いながら踊っていると、回りの連中が踊りを止めて、ケッ コルテ!(que’corte!)と言って、巧みな踊りっぷりに拍手をし「もう一丁、いいところを見せてくれ」と言う意味に使われた。だからミロンガは、その当時 「コルテのある踊り」(注1)とも言われた。これ以外にも今までに白人は、黒人から種々の踊りを習得してきたが、カンドンベの昔から、なんでもかんでもそっくりそのまま導入したわけではなく、特に今回のように、オリジェーロがコルテやケブラーダをやって見せて、仲間に自慢すると言うような、あけすけな行動は白人としてのモラルが許さなかった。しかし、楽譜通りの演奏で「ラ・ダンサ」(パリから音符と共にもたらされた)を踊るときに、リズム通りにエレガントなコルテを巧妙に入れた踊りもコルテと呼ばれた。このような場合は自他共に許す立派な「踊り」を意味した。
 コルテやケブラーダは大いに流行し、モンテビデオだけでなく、アルゼンチンではブエノスアイレスは勿論、コリエンテス州やエントレ・リオス州の町々(注2)までを風靡した。要するに、コルテ、ケブラーダは、各自が自分のアヒリダー(敏捷さ、器用さ)を自慢するために始めた踊りの一動作が、次々と真似されて一つの踊りの形になったものである。だから、ハバネーラ→ミロンガ→コルテとなったこの踊りは、ラ・ダンサと生まれは同じ大アンティル諸島でありながら、大きな違いがある。それは、ラ・ダンサがパリーで優雅に成長し、音符と一緒に輸入されたものであるのに対し、ハバネーラは船員から直接持ち込まれてきて、音符などなくその土地で勝手に改良されたものだと言うことである。
(注1)コルテによる踊り: 原文はbaile con corte となっている。conは英語の with。コルテの入った踊りとかコルテをする踊り。
(注2) コリエンテス州、エントレ・リオス州: エントレ・リオス州はブエノスアイレス州の北東に隣接する州で、コリエンテス州はさらにその北の州、両州ともウルグアイとの国境を流れるウルグアイ川と、ラ・プラタ川上流のパラナ川に挟まれた州で、州都はエントレ・リオ州がパラナ、コリエンテス州は州名と同じ。
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