第6章 ラ・アカデミア 

1.ミロンガを広めた所
 モンテビデオでミロンガ=ハバネーラが盛んになると、オリジェーロ達が住む地域には、公衆ダンスホール(正式には salo'n de bailes pu'blicos)と称する人の集まる場が、新しい商売として登場してきた。このホールではジンとかワイン、ビールなどの飲み物も売り、また操り人形芝居をやったり、軽演劇の舞台を備えた所も現れ人気が出てきた。こうした場所が各地域毎に1か所くらいできた。
 エル・プエルト、エル・バホ、エル・アグアーダ、エル・コルドンなどと、それぞれ港に近い各地域の特徴を取り入れた名前が付けられていた。この中でも、ソリス・イ・グローリアとサン・フェリーペの二つのホールが特に繁盛し、他のホールが時代の変化と共に衰えて、閉店してからも最後まで(1899)まで残っていた。サン・フェリーペには、上手なオルケスタと優秀な作曲家(と言っても音符は知らないが天才的な才能を持っていて自己流で立派なミロンガをいくつも作っていた)がいたので、「アカデミア・デ・バイレ」 と言う別名がついた。サン・フェリーペはこのため有名になり、毎夜多くのお客を集めるようになると、他の公衆ダンスホールもラ・アカデミアを名乗るようになり、公衆ダンスホールと言う長い名前よりも、ラ・アカデミアの方が一般的な呼び方になった。時代は、1800年代の中頃で、アルゼンチンでは、独裁者と言われたロサス大統領の全盛時代であった。

2.アカデミアの風景
 ラ・アカデミアのサロンは、天井から放射状に三角形のいろいろな国の旗が吊るされ、石油ランプが所々にぶら下り、椅子が壁に沿って一列に並べられ、女達が次ぎの順番が回ってくるまで、座ってお喋りしていた。ラ・アカデミアのオルケスタは普通5,6人で編成されており、メンバーは例外なくネグロ・クリオージョで、中でも素質の良い者がマエストロ(バンドリーダー、作曲家)となって、時々は新作を発表したりもした。楽器は弾くものよりも吹く楽器の方が多かったが、これはミロンガを踊る人が文字通り大騒ぎをするので、なるべく大きな音を出す楽器でないと役に立たないためにそうなったのである。勿論、タンボール(太鼓、タンゴの語源にもなった)は絶対に欠かすことの出来ないものであった。しかし後に、タンゴの楽団には絶対に欠かすことのできなくなったバンドネオンは、この時代にはまだ現れていなかったらしく、文献にも出ていない。また、アコーディオンはアカデミアでは使われず、チーナの部屋や家族的な踊りに使われるだけであった。
 現代のダンスホールなどと比べると、随分粗末な光景のように思えるが、その頃の庶民の家庭では、まだ石油ランプなどは使うことが出来ず、照明は手製の豚や牛の脂から作った、悪臭を発するローソクで、それも来客時とか食事のときにしか使わない生活をしていた。したがって、オリジェーロには、このラ・アカデミアは夢のような歓楽場に見えたようである。今までチーナの家の狭い部屋の、薄暗い灯りの中でミロンガを踊っていた連中は、ここぞとばかり、ラ・アカデミアに押しかけ、安酒を引っ掛けては一晩中ミロンゲーロ(ここでは踊りと騒ぎの二重の意味になる)をやって大騒ぎをした。踊りの種目もミロンガ=ハバネーラばかりでなく、上流社会で流行していた、ワルツ、ポルカ、マズルカ、チョティス、パッソ・ドブレ、クワドリージャなど、ほとんどの踊りが見られたが、最後はやはり自分達でミロンガにしてしまった、自分達の踊りに変わっていた。
 ラ・アカデミアのダンサーの女達には白人の女(クリオージャ・ブランカ)も混じっておた。多くが年増でお世辞にも綺麗と言えるような女はいなかった。女としては最低の職業に近く、普通の家庭の女性は、ラ・アカデミアの女とはなるべく口を利かないようにしたり、女同士の口喧嘩で ”アカデミア女!”と浴びせられるのは、最大の侮辱であったと言われる。しかし、みな踊りはとても上手であった。彼女達はいつも、襞が沢山入った短いスカートをはいていた。当時、一般の女性のスカートは、地面を引きずるように長い、幅の広いものだったが、ラ・アカデミアの女達は、現代の女性の服装に近く、体にぴったり合った短いスカートをいつも穿いていた。これは彼女達の職業の必要上からきたもので、一般女性のように長いスカートでは、コルテやケブラーダなどのテンポの速い、特別な動作を必要とする踊りはとても踊れなかったからである。 
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