第6章 ラ・アカデミア つづき 8.タンゴの元祖 ラ・アカデミアで成長したミロンガは、オリジェーロの先祖がアフリカから持ってきた言葉、儀式、才能、リズム、情緒などにヨーロッパの踊りを加え、そのすべてを混合してクリオージョ化してきたものである。そして、これが”タンゴの元祖”ともなった。その良き例は、ダンサ・クバーナ(ミロンガの6項参照)を受け入れて、これをクリオージョ化したものであり、1800年代末期には、この中からマテ・アマルゴ、ラ・ケブラーダ、カーラ・ベラーダ、ラ・カナリア、ペヘレイ・コン・パパ、セニョール・コミサリオなどの名曲が生まれている。これらの曲は前号でも書いたように、音符なしでできたものだが、後モンテビデオの作曲家アンヘル・J・コルタカンス (Angel J cortacans)が音符を付けており、現在でも古い文書には”ミロンガ・クラシカ・デ・アカデミア・モンテビデアーナ”として残されている。 興味深いことは、近代のタンゴが必ずといってよいほど、苦しみや喜びの違いがあるにせよ”アモール(愛)”を唄ったものであるのに反し、上記のタンゴの元祖には、その曲名に甘いムードを感じさせる文字がなく、政治的な風刺や硬い曲名が多かった。なぜこういった曲がオリジェーロに愛されたかと言うと、当時の黒人達は、正直ではあったが無学のため、時には白人の悪い役人や主人達のために騙されたり、権力を傘に虐められたりしていたので、その鬱憤を晴らし、言いたいことを代弁してくれるような、この種の歌が多くのオリジェーロの心を捉えた結果であると言える。 アカデミアでコルテやケブラーダを入れた踊りの形が、現在のタンゴの形に近くなってきていた。オリジェーロとその相手の女性(多くは白人のクリオージャ)は、ミロンガでその器用さのデモンストレーションをするときには、今のタンゴを踊るように、男は右の手を女の背後から腰のあたり(正確には尾てい骨のあたり)にあて、左手は女の右手を持って自分の左腰にあてる。女は男の右肩にその左手を乗せ、足は他から見るとほとんど絡み合っているように見えるほど交叉し、身体をぴったり付け合い、まるで一つの身体のように抱き合っていた。実際にこうしないと上手にコルテやケブラーダなどはできなかった。 というのは、いろいろに変化するミロンガの曲について、あるいは軽く、時には滑るように、またターンをするときには、殆ど身体を斜めにしながらクルリと回るなどという、奇妙な軽やかな踊りは、それまでのヨーロッパから来た踊りや、ガウチョのそれのように、離れていたり手だけを触れ合っていたのでは、到底できなかったからである。身体をピッタリ合わせるだけでなく、頬と頬をピッタリくっつけて踊るカップルもいたが、戦後日本でチークダンスなどと騒がれたこのような踊りは、もうすでにこの時代からオリジェーロ達がやっていたのである。モンテビデオでは土曜、日曜の夜とか祭日の夜には、オリジェーロの若いグループがアカデミアからでた新しいミロンガを唄い、踊りながら街を練り歩き、街の人達も白、黒の差別なくこれを見たり、唄を聴いて週末や祭日の夜を楽しんだものである。 アカデミアのことを少し長く書きすぎたようだが、これはアカデミアが、ミロンガやタンゴの発生・発達の上で、またこれらの踊りが一般化する上で、大きな役割を果たしてきたからである。 9. クアルトス・デ・パレルモ モンテビデオにアカデミアができた頃のブエノスアイレスは、アルゼンチンの独裁者として有名なロサス大統領の時代で、現在パレルモ公園の動物園がある場所(当時は砲兵隊の兵営があった)に、「クアルトス・デ・パレルモ」という黒人クリオージョが集まる有名なダンスホール(アカデミアに相当する)があった。 ローサスは、その当時モンドンゴ地区と呼ばれたボカの黒人地区を、新年やクリスマスの夜に変装して訪問したというが、このクアルトス・デ・パレルモもよく訪問して、黒人クリオージョのカンドンベ(後のミロンガ)を楽しんでいたと言う。クアルトス・デ・パレルモは、モンテビデオのアカデミアが全ての踊りをクリオージョ化したように、黒人ポルテーニョ(注)もやはり、あらゆる音楽(彼らの先祖アフリカものも含めて)をクリオージョ化した、勿論前章で書いたように、国際ミロンガ大会などを開きモンテビデオとの交流が大きく影響している。 (注)ポルテーニョ: ブエノスアイレスは一つの州の名称であるが、その中に連邦首都としてのブエノスアイレス市がある。この市内で生まれた者をポルテーニョ(港っ子)と言う。 当時のブエノスアイレスのことをホセ・アントニオ・ウイルデという作家が次のように書いている。『黒人クリージョはみんな素晴らしい音感を持ち、一度聞いただけでもう次にはその曲を自分のものとしていた。黒人少年クリオージョがオペラの難しい一節を聞き覚え、口笛を吹きながら街を歩いているのを見たこともがあるが、全く原曲と違っていなかった。』 そのうちブエノスアイレスの中心部にも多くの、サロン・デ・バイレ・プブリコ(公衆ダンス・ホール)ができ、飲んだり賭け事も出来るような仕組みになっていた。しかしアカデミアと違うところは、これらのダンス・ホールのオーケストラはとてもお粗末で、楽器はアコーディオンとオルガン、それにギターくらいなものしかなかった。もっとも上流階級の住む地域のホールにはアカデミヤと同等のオーケストラもいた。 コルテやケブラーダも、ラ・プラタ川を往来する黒人の船員達によってモンテビデオから輸入された。このことから見ても、「タンゴは、キューバの黒人船員がキューバから持ってきたハバネラが、ボカでカンドンベと混ざり、ミロンガと混ざり、それがタンゴになった」、とボカに住む人達が称える説は間違いだと言うことがわかる。その証拠として、タンゴの元祖ミロンガはモンテビデオから輸入されており、ダンス・ホールなどの環境を比較しても、全ての点でモンテビデオよりかなり遅れていたからである。その後、時が経つにつれ、公衆ダンス・ホールは各所に増えてきたが、中でもソリス街とエスタードス・ウニードス街の角、ポソス街とインデペンデンシア街の角(1884年まであり、最後まで残った)が有名であった。 |