第7章 サイネテス・オリジェーロス (注) 

1.
コサス・デ・ネグロス
 フランシスコ・アルグレアヴェスの「バルトーロ」をはじめ、ブエノスアイレスのクリオージョ作曲家が「ピアノ用タンゴ」を作り、その楽譜を売り出したのは1889〜1890年頃からであった。当時、ラ・アカデミアやペリングディネス(多くはイタリア人移民が経営)のダンスホールに行った白人家庭の子弟により、ミロンガ、タンゴ、ハバネーラなどがだんだんと普及の度合いが高まりつつあったので、このピアノ用タンゴの楽譜はちょっとしたベストセラーになった。だが、一般的に言うと、ミロンガ、タンゴ、ハバネーラなどは「コサス・デ・ネグロス(黒人達のもの)」として、普通の白人家庭ではカルナバルの夜か、あるいは、お祭りなどでかなり酒が入って座が乱れたようなときでもなければ、大っぴらには弾いたり歌ったりされず、いわんや上流社会では、まだまだヨーロッパ直輸入のワルツなどが、フランス、イギリス、オーストリアの宮廷舞踏の雰囲気を備えるものとして踊られていて社交界の主流であった。タンゴは1800年代の終わりごろまでは、まだ、ラ・プラタ川流域の裏社会を歩く音楽だったのである。
(注)サイネテ: 劇の一種サイネテ、狂言、庶民生活を描いた風俗喜劇。オリジェーロのサイネテ。

2. 「フアン・モレイラ」とともに檜舞台へ
 ところが、このように品格がかなり下に見られていた黒人のミロンガが、当時人気のあったガウチョ劇「フアン・モレイラ」の最終シーンに挿入され、それがモンテビデオの一流劇場で公演され、一躍檜舞台に登場してきた。このことが、ミロンガやタンゴが、黒人世界だけのものではなく、アルゼンチンの音楽として、世界にその名を知られるようになるきっかけになったと言える。
 フアン・モレイラのミロンガ「ラ・エストレージャ」は、アントニオ・ポデスタの作曲で、主人公フアン・モレイラがお尋ね者となり、長い流浪の旅をした後、再び故郷に帰ってきて、昔なじみの恋人のいるプルペリーア(食料、酒、雑貨などを売る店)の狭い床で、恋人と踊る最終シーンに挿入されたもので、最初の公演は1889年、モンテビデオのポデスタとスコティが共同経営する劇場で行われた。ついで、翌年にはブエノスアイレスのテアトロ・ゴルドーニで、クリオージョ作曲家ガルシーア・ララーネが、ヨーロッパの劇団のためにミロンガを作曲し上演された。ララーネはこの曲を8年後の1898年、アポロ劇場(当時のブエノスアイレスで一流の劇場)で上演されたサイネテス・オリジェーロスの「エンサラーダ・クリオージャ」の伴奏曲として使い、ブエノスアイレスの市民に愛唱されるものとなった。
 アポロ劇場でのミロンガ演奏は、黒人の住む地域で育ってきた、この音楽の地位の高まりを決定的なものとし、他の劇場でも「クアドリージャ・アカデミカ」(注)を入れたサイネテス・オリジェーロが上演されるようになった。
(注)クアドリージャ: カリブ海の大アンティル諸島のラ・ダンサの一種で、フランス人がパリに持ち込み、再び南米のラ・プラタ流域に入ってきたもので、コントラダンサとも言われる。

3.クリオージョ作曲家の活躍
 ところが、これらモンテビデオやブエノスアイレスの、一流劇場付きの作曲家や楽団のリーダー(マエストロ)達はほとんどがヨーロッパ人であったため、サイネテス・オリジェーロの音楽には、それまでほとんど知識がなかった。そのため、先に述べたフランシスコ・アルグレアヴェスをはじめアルトゥーロ・デ・ナーバ、フアン・デ・ナーバ兄弟(ウルグアイ人)、トレーホ・デ・マリーアなどのクリオージョ作曲家が大いに活躍した。ナーバ兄弟は歌手であり、作曲家でもあり劇作家でもあった。タンゴの歴史を研究したビセンテ・ロシイは、『ナーバ兄弟は作曲家として、歌手として、劇作家として全ての点で当時の第一人者であった。中でもアルトゥーロは、その人生の大半をブエノスアイレスで過ごし、アルゼンチンのオリジェーロ劇を多く書き、作曲(ミロンガ、タンゴ)も多く、その内の「エル・カレテーロ」は今でも唄われているほどである。』と、述べている。
 また、クリオージョ作曲家と言っても、アルゼンチン人のフランシスコ・アルグレアヴェスや、ウルグアイ人のナーバ兄弟のように、モンテビデオとブエノスアイレスを行ったり来たりして活躍した人もいたが、やはりウルグアイ人はモンテビデオのオリジェーロをテーマに、アルゼンチン人はブエノスアイレスのオリジェーロを描いて、それぞれの特徴を競い合ったものである。川一つ隔てて同時代に育ち、流行してきたと言っても、黒人のオリジェーロ達の生活は、それぞれですでに長い歴史ができていて、モンテビデオとブエノスアイレスとでは異なった生活様式、表現法がみられるようになっていたので、そのサイネテの中身も大分趣をことにしたものになっていた。
 若し、ブエノスアイレスやモンテビデオの演劇界で、こうした有能な才能を持ったクリオージョ作曲家達の活発な動きがなかったら、いかにミロンガやオリジェーロ劇が一般に受けても、アポロ劇場の檜舞台に上がることもなかったろうし、後々タンゴがヨーロッパに進出して、当時のヨーロッパ諸国の文化人の間に、侃々諤々の論争を巻き起こさせるようなこともなかったかもしれない。その点、これらクリオージョ作曲家のグループが、タンゴ発展史上に尽くした役割は、偉大なものがあったと言っても過言ではない。  
 次のページへ