第7章 サイネテス・オリジェーロス つづき

4.
ミロンガとタンゴ
 サイネテのミロンガが流行しだすと、クリオージョ作曲家も次々に新作を発表し、ますますブームをあおった。劇場もサイネテ・オリジェーロをいつも上演するようになった。始めの頃は、場繋ぎの幕合いに狂言のような形で、2,3人の男優がピエロのような扮装でミロンガを歌ったり踊ったりしていた。しかし、だんだん大衆の人気が高まってきたため、クリオージョ劇作家も黒人オリジェーロの生活を織り込んだ寸劇を書くようになった。そのうちには女優も加わった「コルテ」や「ケブラーダ」の見せ場もあるミロンガが、ふんだんに聞けるサイネテを上演するようになった。「コルテ」を舞台上でやるクライマックスになると、観衆は大喜びで大声をかけたり拍手をしたり、アンコールを要求したりしたという。
 ところが、このサイネテでは「ミロンガ」と「タンゴ」は同意語として使われ、舞台上で、・・・bailaremos Tango y Milonga・・・ とか・・・le metimos Tango y Milonga・・・などと言う言葉がふんだんに用いられたので、一般観衆もミロンガもタンゴを同じものだと思うようになった(注1)。アルグレアヴェスなどのピアノ用タンゴはハバネーラであり、これはすでに一般家庭にも普及していたので、ハバネーラもタンゴだと思う人たちも多かった。こうして、「ミロンガ・イ・タンゴ」(”イ”はand)と言っていたのが、段々とミロンガが省略されて、後にはただ「タンゴ」を踊ろうと言われるようになった。
 現在、フィルベルト(注2)などが回顧談で、「私が6,7歳の頃・・・1891年か2年頃に初めてタンゴを聞いた」 と言っているのは、おそらくこれらのミロンガか、もしくはピアノ用タンゴの一節ではないかと思われる。また、フィルベルトの父親がタンゴ踊りの名手と言われていたので、「あるいは私の父親がタンゴ踊りの創始者だったかもしれない」と言っているが、これは彼が父親を美化して話したものらしく、フィルベルトの父親は確かに踊りの名手ではあったようだが、創始者の中にはその名は見えない。
(注1)どちらも、さあ、タンゴとミロンガを踊ろう、と言う意味。
(注2)フアン・デ・ディオス・フィルベルト:1885年5月、ボカで生まれた。タンゴの名曲、カミニート、バンドネオンの嘆き、ならず者などの作曲者


5.現代タンゴのはしり (1890年頃のミロンガ)
 タンゴと言う言葉をもう一度吟味して見ると、なぜ、ハバネーラ、ミロンガなどがそのままタンゴと言われるようになったかよく理解されると思う。要するにタンゴは、以前から広義の「踊ること」を意味する、アフリカから連れてこれた黒人の言葉として存在したものであり、ある特定の踊りを指して言った言葉ではなかった。そのためにアフリカからこのラ・プラタ植民地に連れてこられた黒人達は、カンドンベにも「タンゴ」という名をつけ、1800年代の初め頃にはタンゴ・デ・ネグロ(黒人のタンゴ)と言えば黒人(後のオリジェーロ)の踊り全般を指して言った言葉であり、ミロンガにもタンゴという名をつけている。しかしこの時代のタンゴ、ミロンガと現代のタンゴとは曲の旋律が違う。
 現代のタンゴに近いミロンガは、やはりミロンガが一流劇場でサイネテ・オリジェーロとともに演奏されるようになってからのもので、その証拠には、昔(1800年代の初期)のカンドンベやハバネーラなどと、1890年頃の前記劇場で演奏されたミロンガやピアノ用タンゴなどとを弾き比べるとすぐ分かるし、音楽の素養のある人ならば音符をみただけで一目で分かると言う。ガウチョ劇「フアン・モレイラ」に挿入され、初めて一流劇場で演奏されたアントニオ・デ・ポデスタの「ラ・エストレージャ」やミロンガ・クラシカの「ペヘレイ・コン・パパ」、「セニョール・コミサリオ」など1800年代末期のミロンガなどの楽譜が載っている本は、まだどこかの本屋の棚の上の隅に埃をかぶっているかもしれない。もし見つけたら誰か素養のある人にこれを弾いてもらって実際に聞き、この説を本当に確かめてみたいものである。

6.モンテビデオ生まれのブエノスアイレス育ち
 前項で述べたように、現代のタンゴは1880年頃のミロンガにクリオージョの作曲家が楽譜を付けたものから始まっているが、そのミロンガはモンテビデオのラ・アカデミアから出たものを先祖としているので、厳密に言えばタンゴの発祥は、モンテビデオから、ということができる。しかし、それはあくまで、”生まれた”、というだけのことで、育ったのは間違いなくブエノスアイレスである。なぜかと言うと、今まで述べてきたように、アルグレアヴェスのピアノ用タンゴを始め、ガルシーア・ララーネなど、ブエノスアイレス生まれの作曲家によって、現在弾かれているタンゴの原型が出来上がったのであり、また、モンテビデオ人のクリオージョ作曲家達も、ほとんどがブエノスアイレスに移ってきて、多くのタンゴを発表していることがそれを証明している。さらに、ブエノスアイレス市民がタンゴを愛した、と言うことも重大な意味がある。タンゴの踊りの中の「コルテ」が黒人オリジェーロから一般家庭に入って、大いに受けたのも、ブエノスアイレス市民が先天的にタンゴ好きな市民であったからだ。確かにモンテビデオでもラ・アカデミアができ、ミロンガ・クラシカ・モンテビデアーノが生まれた。しかし、楽譜を付けて一人前のものにしたのはブエノスアイレスの人々である。ボカのお偉い方々が「タンゴはボカで生まれた」と断言するのは正確ではない、が、しかし、「生みの親より育ての親」の方が愛情が深いものだ。モンテビデオでタンゴが生まれても、育ての親はブエノスアイレス、それもオリジェーロ達が集中していたボカなのだから、ボカ人が「タンゴは我々のものだ」と言うの、あながちも無理はないことである。
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