第7章 サイネテス・オリジェーロス つづき

7.
アカデミア・デ・タンゴ
 ミロンガ・イ・タンゴ(ミロンガとタンゴ)がタンゴになってからも、しばらくはミロンガと区別がつかなかったが、劇場で演奏されたり、一般家庭のパーティでいつも聞かれるようになると、その歌も曲も段々と高尚になり、クリオージョ作曲家も意識して、立派なものを作ろうと努力した。このため、タンゴはそもそもの発祥元であるオリジェーロ(注)のミロンガとは次第にかけ離れたものになっていった。
(注)オリジェーロ: 前にも述べたが、またここで改めてオリジェーロの定義を述べておく。オリジェーロとは、オリージャ(orilla:;川岸)に住む人々のことを言う。ラ・プラタ川のオリージャ(最大幅約40kmの川を挟み東西約200km離れて位置する、ウルグアイのモンテビデオとアルゼンチンのブエノスアイレス両首都の場末や郊外など)に住むオリジェーロとは、黒人クリオージョを始めとする下層階級の人々のことを言った。モンテビデオではバリオ・バホ:ずばり下層地域とも言った。

 こうして誰もが、タンゴを気楽に踊るようになると、各所に「アカデミア・デ・タンゴ(タンゴ学校)」ができた。これはすでに述べた「ラ・アカデミア」とは全く趣を異にして、各所にある「アカデミア・デ・バイレ(ダンス学校)」とほぼ同様なものであり、マエストロ(先生)はクリオージョかイタリア人であった。今より全てが儀礼的な時代だったので、先生はフロック・コートかスモーキング(タキシード)を着こんで、ぴんとしたカイゼル髭を生やしたりした人が多かった。もっとも、生徒達の多くが良家の子女であることを考えれば、知能水準などは問題にしなくても、外観は格式張る必要があった。
 大衆ダンス・ホールやベリングディネスもまだあったが。ここは良家の子女が冒険的な試みとして、たまに遊びに行くくらいで、ここのお客の大部分は、オリジェーロをはじめ下級船員とか労働者などで、「アカデミア・デ・タンゴ」とは全く客層が違っていた。一方、モンテビデオには遂にアカデミア・デ・タンゴは見られなかった。というのは、何と言ってもタンゴの発祥地だけに、余りにもその生い立ちが知られすぎていたため、一般家庭、特に上流家庭では 「コサス・デ・ネグロ」 (第7章サイネテス・オリジェーロス1項、コサス・デ・ネグロス参照)の蔑視思想が抜けきれず、ブエノスアイレスほど素直には受け入れられなかったからである。しかし、ヨーロッパで流行するようになってからは、家庭教師を雇ってタンゴを習った家庭も多い。

8.紹介者は白い手の人々
 タンゴをヨーロッパへ紹介したのは、1900年代(明治33年以降)に入ってからのブエノスアイレスの上流社会の女性達であった。この現象を「それは白い手で運ばれた」という表現をしたアルゼンチン作家もいる。当時、ブエノスアイレスの上流夫人達は、世界文化の中心地と言われた”花の都パリ”を訪れて、演劇のシーズンを過ごすのを一種の義務と心得ていたので、・・・これをしないと上流社会では相手にされないくらい・・・毎年々々シーズンには、渡り鳥が海を渡って行くように、ブエノスアイレスの上流夫人達は海を渡ってパリに押しかけた。朝から晩まで衣装を着比べ、演劇鑑賞とダンスのことで明け暮れる彼女達が、タンゴをパリジェンヌに話し、踊って見せないはずはない。1907年1月、ロカ将軍(1880〜86、1898〜1904の2期アルゼンチン大統領を勤めた)が、第2期目の大統領を無事勤めた後ヨーロッパを訪問した。その途中ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで同将軍の歓迎パーティが開かれた。招待したブラジル側の夫人連が、フォルクローレ・ブラジレーロを踊ったので、これに返礼として、丁度出席していたヨーロッパからの帰途にあったアルゼンチンの上流階級の淑女達がタンゴを踊って見せた、と文献にある。1900年に入ってからはすでにヨーロッパにタンゴが紹介されるようになっていたのである。  
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