第8章 タンゴの奇跡 1.ヨーロッパにおけるアルゼンチンの認識 いうまでもなく、第一次世界大戦(1914〜18、大正3〜7年))前の世界の文化、経済はすべてヨーロッパを中心にして動いていた。経済はロンドン、文化はパリ、そしてドイツではカイゼルの下で、イギリスに代って世界をリードしようと軍備拡張に狂奔していた時代であった。全世界の目がロンドン、パリ、ベルリンに向けられており、ラテン・アメリカなどはヨーロッパ諸国が巻き起こす主導権争いの大きな渦の外にあった、と言ってもよい。いわば世界の動きの蚊帳の外にいたのである。米国といえども、やっと第3勢力的としての存在感が芽生え始めていたにすぎない。こうした時代であるから、ヨーロッパ人の「アルゼンチン、アルゼンチン人」に対する認識は、第二次大戦後に相次いで独立した多のアフリカの国々や、冷戦が終わって開放された旧ソ連内の弱小共和国などに対する認識よりも、ずっと薄弱なものであったのも無理はない。 一般のヨーロッパ人がいかにアルゼンチンのことに無知であったかという例として、1880年から始められたコロニア・ピグエ(ブエノスアイレス州)のフランス移民導入に関するエピソードをあげることが出来る。コロニア・ピグエはフランス人クレメンテ・カバネッツ氏が努力して建設した移住地である。アルゼンチンで最初の雹害保険を設けたり、共同出荷制度の完全な組合を持ったコロニアとして、アルゼンチン殖民史上にも特筆されている。しかし、それほど整った移住地であるにもかかわらず、カバネッツ氏がフランスに帰って、第一回目の移住者を募集したところ、「アルゼンチンには獰猛な土人がいて、捕まると皆焼いて食われてしまう」とか、「パンパには人間より大きな蝦蟇がいて、子供を一番の好物とし、見つかったら最後、頭から丸呑みされる」などという話がまことしやかに信じられていたため、第一期の40家族を集めるのに非常に苦労をした、と言う話が残っている。 英国では、アルゼンチン独立時代から政治、経済に密接な関係があり、特に移民事業は独立当初から始まっていたので(1821年、リバダビア政権はロンドンの移民会社Beaumontoと、その導入計画について合意書簡を交換している)、その調査旅行記などが詳しくロンドンの新聞紙上で発表されていた。このためアルゼンチンの牧畜について、一部の関係者の間では知られていたが、一般人はフランスの場合と同様、アルゼンチンに関してはほとんど無知であった。 アルゼンチンとしては、第一次大戦前にすでに、アルゼンチンの冷凍肉がヨーロッパに輸出されており、農産物の輸送手段として国内の鉄道も徐々に発展し、小麦の輸出も多くなり、貿易が伸びていた時代だから、政府もパリ、ロンドン、ウイーンと言った、めぼしい国々には大使公使館を設けて、アルゼンチン国に関する知識・関心の普及に努力していた。だが、これらの国々の大公使館が幾らパンフレットを発行してもパーティを開いても、一般の人々にアルゼンチン国を、いやアルゼンチンという名前そのものさえも頭に入れてもらうことは容易ではなかった。それがはからずも「白い手の人々」−アルゼンチン上流夫人-によってもたらされたタンゴによって、アルゼンチンの名前がまたたくまに全ヨーロッパ中に知れ渡ったのである。 2.パリにおけるアルゼンチン・タンゴ 1912年頃(大正元年)になると、タンゴはすでに上流人士が行くミュージック・ホールでも大ぴらに 「アルゼンチン・タンゴ」 と呼ばれて演奏され、大いにパリっ子の血を沸かしていた。また、「アカデミア・デ・バイレ」の経営者達は「タンゴ・ブーム」が起こり始めると、すぐタンゴのマエストロを雇ってパリに進出し、”アルゼンチン・タンゴを教えます”、と大々的に宣伝した。マエストロ達は、最初はブエノスアイレスでタンゴを覚えたイタリア人、ポーランド人、ロシア人などだったが、後にはパリだけではなく、ヨーロッパ全域にタンゴ・ブームが起こってきたと言う話を聞いて、ブエノスアイレスから押しかけてきた、クリオージョのマエストロも多く見られるようになった。それまで、ヨーロッパで踊られていたダンスは、社交ダンスにしても、また、各国にあるフォルクローレにしても、男女が体を離して上品に踊るものであった。そこに旋律そのものが人間の血をかきたてるようなタンゴのリズム、さらには、ぴったりと体をくっつけ合って踊る「コルテ」や「ケブラーダ」が現れて、たちまち他の踊りを圧倒したのだから、当時の社会の指導層である上流社会、皇室、王族、バチカンの神父や文化人などは驚いた。 パリの新聞は連日「タンゴ」の道徳性に係わる批判を載せ、保守派(タンゴに反対)、進歩派(タンゴ容認)の両派の論争記事が紙面を埋めた。なぜ、タンゴ・ブームを招いたのか?と言うことだが、当時の、大戦前(第一次大戦)と言う社会の暗い雰囲気が、一般大衆に何となく刹那的、享楽的な雰囲気を求める傾向をもたらしていた。そこへタンゴと言う、人間の情熱をむき出しにしたような踊りが現れたのだから、気分的に押さえつけられていたヨーロッパ人が直ちにこれに飛びついて、そのはけ口にしたのもうなずける。1913年10月、パリの新聞にはでかでかと次のような記事が載った。 『今までデマとしか思えなかった話が現実となった。それは我々の最も尊敬する大詩人ジャン・リショパン(Jean Richepin:注)が恒例の五文化協会主催の公聴会で、アカデミア・フランセーズを代表して特にタンゴにつての弁護をするというのである。 (注)ジャン・リショパンは当時アカデミア・フランセーズの会員で、詩人として最も有名で、尊敬されていた人。 当夜の公聴会会場は、文字通り立錐の余地もないほどの盛況であったが、これらは全部ジャン・リショパンのタンゴについての弁護を聞くために集まった人達であった。彼が壇上に立つと割れるような拍手が会場を揺るがした。彼の演説は、厳密に言えばタンゴの音曲そのものを褒めたのではなく、保守派から非道徳的と非難され、問題の焦点となっていた踊りについての弁護であった。これはパリの上流社会や文化人の殆どが、この踊りを激しく批判しているときなので、非常に勇気のいることであった。彼はまた演説の最後に、アカデミア・フランセーズの幹事に対し、『自分は今 ”Le Tango”と言うコメディを書いているので、約束していた今後の公の式典への出席は取り消すので承知願いたい」 とタンゴに対する情熱を聴衆の前ではっきりと見せた。』 ジャン・リショパンの弁護演説の後も、タンゴの踊りの道徳性についての論争は続き、いろんな文化人がパリの有力紙フィガロ、エキセルシオール、ヒル・ブラスなどに投書した。この論争は、1913〜14年が最も盛んで、ヒル・ブラス紙はタンゴについての市民投票まで行った。この市民投票では、殆どの文化人が賛成票を投じた。この論争中、ヒル・ブラス紙のブエノスアイレス特派員は、本社からのタンゴに関する色々な問い合わせのため、その調査にてんやわんやの騒ぎをしたという記事も出いる。 |