第8章 タンゴの奇跡  つづき

3.
パリにおけるアルゼンチン大使の声明
 折角タンゴがブームを巻き起こし、労せずしてアルゼンチンの名が広まり、自然にアルゼンチンという国への関心も高まり、本来ならばアルゼンチン大使などは大いに喜んでよいはずなのだが、昔から洋の東西を問わず、役人というものは妙に頭が固い者が多い。とにかくこちこちに固いのである。新しい物となると何事によらず毛嫌いして、さわらぬ神にたたりなしとばかり近寄らない。その反面、いわゆる旧来の伝統とかしきたりとかに弱く、毛並みの良さを尊ぶ人種である。パリ駐在のアルゼンチン大使エンリケ・ロドリグエス・ラレータも典型的な官吏であったと見え、パリに新しい波を起こした自分の国のタンゴに反対する声明を、ロンドンとパリの新聞に発表した。大使の言う分とは、
 『タンゴはブエノスアイレスの最下層の人々の踊りであり、決して普通一般の人々がサロンで踊るためのものではない。いわんや、上流社会の人々にとっては、その名を云々することさえ恥とするほどのものである。タンゴの曲はアルゼンチン人にとっては非常に不道徳的な、貧民窟を連想させる不愉快なものである。ところが、パリでは、それと同じものが上流社会の人たちが行くミュージック・ホールやダンスホールで見られる。アルゼンチンで最も卑しいものであり、アルゼンチン・タンゴと呼ばれるのに我々は恥ずかしい思いをしている。賢明なパリ人もその歴史を知ればもっと自重されるようになると思う。常識のある人はすぐに止めるべきだ。』と言うものであった。
 これを聞いた前述のリショパンは激しく反論し、
 『ダンスの由来を探るのは、現在貴族の称号を持っている、上流社会に幅を利かせている人々の先祖を探るのと同じことだ。ダンスの初めはどれも元始的なものであるし、貴族と言っても、その先祖をたどれば一介の平民であったり、山賊や海賊である場合もないではない。よしんば、タンゴがブエノスアイレスの貧民窟に起こったとしても、それは現在のタンゴとは何の係わり合いもない。パリで今タンゴが流行しているのは、それが我が国に入ってきて、長い間に、パリ人に喜んで受け入れられるまでに成長したからである。我々はタンゴが良いものか悪いものかを見分ける目を持っている。』 と言った。真にその通りである。しかし、アルゼンチン大使の声明によって、一時、タンゴは上流社会のパーティでは遠慮がちになった。彼らは”下品”とか”素性の卑しい”とか言う言葉に対してもっとも敏感な人種だからである。

.タンゴ服
 当時、ヨーロッパの女性の着る物は長いスカートで、歩いているときでも靴先が見えない程であった。これは上品な宮廷舞踏にはよいが、タンゴのような活発なものには向かない。タンゴがアルゼンチン大使の声明で一時衰えたと言っても、それは上流社会の一部であり、パリ市民からみればよそ事のようにしか思えず、一般大衆の中ではますます盛んになっていった。しかし女性は、これを踊るのには少々不便を感じた。余りにもスカートが長く、特にタンゴの真髄、「コルテ」や「ケブラーダ」は危なくて踊れないからである。だが、パリはもともとモードはお手のもののお国柄である。タンゴ用の服が直ちに現れた。それは、昔アルゼンチンのガウチョが穿いていたチリパ (chiripa)のような格好の衣装であった。(注)、タンゴは女性の服装まで変えたのだから、いかにそのブームが激しかったかが分かるというものである。モンテビデオ生まれでブエノスアイレスの新聞社の特派員としてパリに来ていた一人の記者は、その光景を次のように書いている。『私はブエノスアイレス人の友達と一緒に大通りを歩いて、突然友人に手をひっぱられたので、彼の視線をたどって行くと、何と素晴らしい美女が向こうから歩いてくるではないか、その彼女は、我々がアルゼンチンやウルグアイの田舎で馴染み深い、ガウチョのチリパそっくりのスカートを穿いている。それが近頃流行の服装だと知って、しばらく言葉が出なかった。』
注)チリパ: 古いガウチョの絵を見るとわかるが、幅広の布を腰に巻いて、後ろの布を足の間から前に回して止める。丁度大きなオムツとスカートの混合したような格好である。 
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