第8章 タンゴの奇跡  つづき

5.
イギリスとタンゴ
 フランスでは、タンゴについて大いに論争が行われたが、ロンドンでも同様に、1913〜14年にはモーニング・ポスト紙のように保守的で上流社会に多くの読者を持つ新聞までが、次のようにタンゴを弁護しているのは興味深いことである。
 『イギリスで踊られているタンゴは、下品とか不作法とか言われるものではなく情熱的なものである。ソフトな甘いもの、それは丁度風にゆれるバラの芳香のような魅惑を持ったものであり、決して退廃的なエロティックなものではない。』 と前項で述べたアルゼンチンのラレータ大使の説に反対してタンゴを擁護した。また、他のロンドンの新聞も、この時代ヨーロッパ中に流行していたタンゴに反対するような論調は一つとして存在しなかった。ヨーロッパに巻き起こったこのタンゴブームは、アルゼンチンの名を冠して非常に文化的なものさえ感じさせた。と言うのは、長い間、鉄道とか小麦に関しての話とか、また、フットボールやポロ競技の選手が、ときたまアルゼンチンという国名をロンドンに持ってくるなどして、我々に南米にあるこの国のことを教えてくれたものだが、すぐに忘れ去られた。しかし、タンゴは、最も文化的な手段でアルゼンチンと言う名を、我々の脳裏に深く刻み付け、旧大陸(注)を完全に征服してしまった。そのほか、駐仏ラレータ・アルゼンチン大使に対する反論には、『もし、ラレータ大使の言うように、ブエノスアイレスのタンゴが下品なものだと言うならば、それは現在ロンドンで見られるものとは大きな違いがあるにちがいない。そうでなければイギリス中の人々が、上は王族、貴族の行く豪華なホテルの大ホールから、最も貧相な田舎の小さなダンスホールでまでが、一様に熱狂的なタンゴを踊るわけがないではないか』。 とにかく、毎週土曜日には、まるで熱病に冒されたように、狂いじみた熱心さで、タンゴを踊っている何千何万のイギリス人がいることは確かである。
 (注)ヨーロッパ大陸のこと。
 1913年6月のザ・タイムス紙上でも、タンゴについてロンドンの有名人が色々な説を述べて論争を行っている。大体イギリス人は伝統的に保守的思想の傾向が強いものだが、タンゴに関してはその魅力にどうすることもできず、ほんど無抵抗の形でどんどん広まったのである。もっとも、上流社会の一部に例外があったようではあるが。
 ロンドン人もパリ人と同様に、タンゴが入ってくると次々にヨーロッパ式に改良し、Tes Tango(テス・タンゴ;ティーパーティーのタンゴ)、 Cenas Tango(セーナス・タンゴ゙:晩餐会のタンゴ)、 Concursos Tango(コンクール用のタンゴ)などと言う新しい、時と場所にふさわしいタンゴを作っており、有名なホテルのサロンでも新作発表会が行われていた。1913年の7月9日、アルゼンチンの独立記念日にロンドンの大使館では、ドミンゲス・アルゼンチン大使の司会で盛大な祝典が行われたが、このときにタンゴが演奏され、出席したアルゼンチン人をはじめ多くのロンドンの名士が踊って大評判となった。マリー女王は、タンゴが演奏されるパーティには全然出席しなかったが、王族達がそれに出席することは特に禁じてはいなかった。貴族の中でもノーフォーク公爵夫人、マンチェスタ公爵夫人、バイロン卿夫人(詩人のバイロンとは無関係)など、当時の社交界で有名な夫人達は、大体においてタンゴについてはその立場から批判的ではあった。しかし、皆非常に興味を持っていたものとみえて、タンゴのパーティには出席し、バイロン卿夫人などは、ブリッジ遊びよりはずっと健康的だ、などと感想を漏らしていた。
 パリでタンゴの道徳性について激しい論争が起きたときには、新聞が主となって市民投票などを行ったが、ロンドンでは王侯貴族および文化人、さらに宗教界の人々までを参加させて、王立劇場でタンゴ審議会が開かれた。集まった貴顕淑女の数は752人と言われ、当時の世界に冠たる大英帝国の王侯貴族が殆ど集まったと見てよい。王立劇場においてタンゴをこれらの人達に見せたのち、賛否の投票をしたのだが、何と総数752人のうち731人までが、タンゴは健全な踊りで何も非常識なものではないという投票をし、反対投票をしたのはわずか21人に過ぎなかった。
 1914年には、当時ロンドンで有名な高級雑誌「The Sphere」は、上流社会の人々が集まる高級サロン「 Loutus club」で有名人がタンゴを踊っている光景の特集写真集を発行した。この写真の中にはタンゴのバンドも写っているが、ピアノを弾いている人間は、明らかに黒人クリオージョであった。そのほかの雑誌も色々なタンゴの場面の写真を載せ、いかにして踊るかをポーズを追って紹介したものもある。これらのことは、一部宗教界の批判にもかかわらず、保守的と言われる英国の上層部にも、タンゴが一般化するまでに普及していたことを物語っている。
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