第8章 タンゴの奇跡  つづき

6. ローマ教皇とタンゴ
  ローマ駐在のアルゼンチン大使ポルテラ氏は、ラレータ駐フランス大使ほど頭が固くなかったので、大いにアルゼンチン・タンゴをローマ人に紹介した。それよりさき、パリ、ロンドンでタンゴ・ブームガ起きると、これが宗教界で大きな問題になり、いろいろな報告が、これらの地のカトリック司教達からバチカンに向かって送られていた。殆ど全部がタンゴは非道徳的な野蛮な踊りだから、クリスチャンには厳重な禁止令をだすべし、というものであった。このため。タンゴがいよいよローマでも流行し初めると、当時の教皇ピオ10世は、この「野蛮な踊り」を踊ることを禁止した。しかしローマ人は上は貴族から下は裏町の若者達まで、誰もその禁止令を守らなかった。宗教の権威が地に落ちたと言われる今日でも、ローマの一般庶民にとっては教皇の命令は即ち神の声である。いわんや、1914年、今から100年も前のローマ教皇の声は絶対至上のものであった。だがタンゴに関しては、さすがの教皇の言葉にもローマ人は従わなかったのである。
 ピオ10世は、この不思議な現象(いつもなら自分の命令は絶対であり、庶民はすぐその言うことに従ったのだが)を見て、「タンゴ」に非常な興味を持った。ピオ10世がタンゴ禁止令を出したのは、前記のようにパリ、ロンドンなどからの報告を決裁しただけで、実際にタンゴの踊りを見て、非道徳的と断定したわけではない。教皇は、庶民までが熱狂するタンゴには、何か現地司教達の報告とは違ったものがあるに違いないと考えた。ちょうどその頃、アルゼンチンからやってきてパリで活躍していた、カシミーロ・アイーン(1882〜1940)という踊り手が、自分のタンゴを是非見てくれと法王に直訴した。こうして状況から法王は、これは一つ実際にそのタンゴとやらを見なければ話にならないと考えた。そこで1914年4月、アイーンのカップルをバチカン宮殿に呼んで、宮殿内のサロンで踊らさせ、実地見聞を行った。
 教皇ピオ10世はタンゴが終わると、非常に満足そうな顔をしていたが、「人間には宗教が必要であると同時に、音楽、踊りも必要である。が、タンゴがその必要なものの一つかどうかは疑わしい。この踊りは余りにも人間性をむきだしにしすぎており、激情的である。しかし、現在の青年達にはこうした踊りが向いているのかもしれない。私としては、もっと激情的ではない、そして愉快なベニスの伝統的な踊り、フルラーナあたりを皆が踊ると良いと思う。」と語った。そして、タンゴ禁止令を解いてしまった。教皇がフルラーナのことについて述べたのは、ピオ10世自身がベニスの生まれであり、若いときには良くこの踊りを見たためであると言われている。バチカンから出された命令(特に禁止令)はいったん出された以上は絶対と言ってよいほどそれが翻がえされることはなかった。その至上命令が、このタンゴの場合には、教皇がフルラーナを推薦したとはいえ、タンゴ禁止令を取り消したのであるから、これも前代未聞といってもよいくらいで、「タンゴの奇蹟」ともいえる事件であった。
 そして、イタリアではある人物によって タンゴが更に発展した。当時の有名な俳優、ルドルフォ・バレンティーノが米国映画、「黙示録の四騎士(1921)」に出演し、そのかなでタンゴを踊ったのである。そして世界中がバンレンティーノのタンゴに酔いしれた。

<バンドネオン> こうして、タンゴは踊るための音楽として世界中に普及していったが、この頃にはバンドネオンの響きはまだなかった。キター、フルートが主なリード楽器で、軽快で踊り易かった。しかし、メランコリックな哀愁を伴ったメロディーは、バンドネオンが使われるようになって奏でられるようになり、一段と表現力が豊かになったと言われている。バンドネオンは1840年にドイツのカールスフェルトと言う町のハインリッヒ・バンドと言う人が考案した楽器で、考案者の名前を取ってバンドネオンと名付けられた。第二次大戦の後、工場は国営化され別の工業製品を製造するようになり、今は作られていない。このため、現在使用中のものがなくなった後は、タンゴのオルケスタからバンドネオンが消えるかも知れないと危惧されている。
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