第8章 タンゴの奇跡 つづき 7.カイゼルも禁止できず 第一次大戦(1914〜1918)前の、ドイツ皇帝カイゼル・ウイルヘルム2世の命令といえば、ある意味ではローマ教皇の言葉以上に絶対的なものであった。特に軍事優先国であるドイツの軍人には、カイゼルの命令であれば火の中水の中にまで飛び込まなければならず、絶対服従、しからずんば死、と言っても過言ではなかった。それほどのカイゼルが出した「タンゴ禁止令」も、ヨーロッパ中を襲ったタンゴ・ブームを阻止することはできなかった。ドイツでまずタンゴが踊られたのはやはり上流社会のパーティーであるが、この国の上流社会の子弟には軍人が多く、また軍人が重視される国の常識として、大抵のパーティーには軍人が必ず出席してしていたので、これを見たカイゼルが、かかる軟弱な踊りが流行するのを放っておいては、大ドイツ国軍の士気にかかわる、と言って禁止令をだしたのである。しかし、これは全く守られなかった。たとえば、第一次大戦が今にも起こりそうな1914年2月(大戦勃発は7月)、カイゼル2世の親友で大実業家のフリドランダー・ルフド氏の令嬢の結婚式があったが、これにはドイツ朝野の名士が殆ど全員出席し、また各国の大公使や隣国オーストラリア、イギリスなどの貴族までが出席した。そのパーティーでは大っぴらにタンゴの演奏があり、若いドイツ軍人までが、きらびやかな軍服の胸を張り、戦争の危機などどこ吹く風と、一夜を楽しく踊った。その当夜はドイツ陸軍の総元締めモルトケ参謀総長と、イヤゴウ警視総監も出席していたのだが、軍人達がタンゴを踊ったことについて、カイゼルの命令を理由に、彼らを拘束したり懲罰を与えたりするようなヤボな真似はしなかった。この結婚式が各国大公使や隣国の貴公子達も出席した国際的なものだったので、いかにベルリン警視総監、またモルトケ参謀総長といっても、カイゼルのヤボな禁止令の履行を、部下に強いることはできなかったのであろう。そうでなくてもフランス、イギリスなどからは、いつもドイツは無骨一点張りの野蛮国だと言われていたので、下手にこのようなことに口を出すと国際的な笑いものになる、と、モルトケ将軍は考えたようである。だが、普通の祭日ではさすがにドイツ軍人は、カイゼルの命令を守り、おおぴらには踊らなかった。(軍服を脱いで踊った)。しかし、ベルリン、ムニッチなどでは家庭的なパーティでは良くタンゴが踊られ、大戦突入の前日辺りには、タンゴを知らないドイツ人はいなかったと言われるほどのブームを起こしている。 8.オーストリアでも禁令 オーストリアは第一次大戦前、オーストリア・ハンガリー帝国としてフランツ・ヨゼフ1世の統治下に、現在のオーストリア・ハンガリー、ユーゴスラビアなどの領土を合わせた大帝国で、ある意味ではドイツ以上の大国であった。また、その首都ウイーンは人も知る音楽の世界的首都であり、パリと同じに文化の華が咲いた古都である。タンゴはこの音楽の都へもパリに入ったのと殆ど同時期に入ってきている。ウイーンは古来、有名な作曲家を数多く出しているが、一般市民も音楽的な教養が高い。そのウイーン子が一遍にタンゴに魅せられてしまい、あっという間にブームを起こした。これを見たフランツ・ヨゼフ1世も、カイゼル2世を真似して 「オーストリア軍人はタンゴのような下品な踊りを踊るべからず」と禁止令を出した。しかし、オーストリア軍人もドイツ軍人と同様、タンゴに魅惑され、公然とは踊らなかったが、軍服を脱いで結構タンゴを楽しんだものである。 9.ロシア貴族とタンゴ ピョートル大帝(在位1689〜1725)が、自らドイツ、イギリス、フランスなどを外遊し、ヨーロッパ文化をロシアに導入してから、ロシアの貴族や富豪の間ではロンドン、パリ、ウイーンなどに子弟を送り、教育することが流行した。日本は明治維新後、300年の鎖国によって取り残された文明の歩みを取り戻そうと、多くの人材をヨーロッパに送ったが、これと同様のことをロシアではピョートル大帝が自ら範を示し、機械文明を取り入れ、ペテルスブルグ(レニングラード)を首府と定め、ロシア最初の近代都市を建設したり、内政を充実してロシアの強国化に努めた。ロシア貴族の遊学は、ヨーロッパでタンゴが流行した第一次世界大戦前までつづき、パリ、ウイーンなどのクラブでは、髭もじゃの貴族達がウオッカを飲み、一杯機嫌でタンゴを踊る光景が見られたという。ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世(在位1894〜1917)も、パリ在留のロシア貴族達の願いを入れ、当時のパリで有名なカフェ、バー、ナイトクラブに出演し、ガウチョの衣装でタンゴを踊っていた一組の芸能人(この人たちが本当のアルゼンチン人だったのか、フランス人がアルゼンチン人の格好をしていたのかは、はっきりしていない)を、ペテルスブルグに招き、タンゴを一般にも見せている。しかし、ドイツ、フランス、イタリアなど列強で起こったようなタンゴ・ブームは、ロシアでは遂に見ることはできなかった。これは当時のロシアの国内事情が大いに影響していると思われる。ロシアではいわゆる”内憂外患が一時に来る”と言った時代であった。国内では共産主義者、無政府主義者によるロマノフ王朝転覆事件などのテロが頻繁に行われ、また、これに対抗する政府の残虐な弾圧、対外的には、いうまでもなく大戦勃発の危機など、慌しい雲行きは、いかにお坊ちゃん育ちのロシア貴族だといっても、そういつもタンゴを踊ってばかりいるわけにはいかなかったであろう。また、一般大衆はロマノフ王朝の専制政治で貧富の差が大きくなり、踊りどころではなかったのである。 |