当時の南米におけるナチス・ドイツの進出 
 
メデジンの悲劇を理解するには、まず、当時の航空業界の内幕を知らなければならない。1930年代中頃における、コロンビアの航空会社SACOと、ドイツの航空会社SCADTAの張り合いが、事故の深い根源になっていたと思われる。当時、ドイツはヒトラーが覇権主義を唱え、世界にその力を見せ始めたころであった。SCADTA社は、第一次世界大戦後の1919年に米州に始めて設立されたドイツの航空会社で、世界でも2番目の規模の航空会社であった。コロンビアは南米航路を運行するには地理的に優れた場所なので、ここに経営の力点を置いた。競争をむき出しにした航空会社のパイロット達の間では、つねに、ドイツの覇権主義とラテン・アメリカの空に自由路線を築こうとする自由解放主義が衝突し、そして、操縦技術も競い合っていた。ナチスの覇権主義とコロンビアの自主独立主義との間の激しい論争については、ホセ・イグナシオ・フォレーロ著”コロンビア航空の歴史”と言う本に詳しく掲載されている。コロンビア国内ルートを開発したドイツの航空会社に、設立後11年もたって漸く採用された最初のコロンビア人パイロットは、最低の処遇にしばしば経営者と衝突したと言われており、航空事業を自国で経営するのはコロンビアの悲願だったのである。

パイロット同士の確執、売られた喧嘩
 
ガルデル一行は、事故の数日前にメデジンにやってきた。この時はドイツ機を利用したのである。着陸しようとした時、ガルデル・ファンの群集が大勢飛行機の着陸地点に集まってきたので、ドイツ人パイロットは、自分の飛行機に危害を加えられるのではないかと恐れ、着陸を諦め再度上昇し、滑走路の端に着陸した。この場所は奇しくも、数日後にガルデルの乗った飛行機が事故を起こした場所であった。このこと(フアンを避けようとする行動)がガルデルに、次ぎのフライトをコロンビア機にするよう決心させたのである。
 事故の5日前、首都のボゴタ(現サンタフェ・デ・ボゴタ)空港に着いたコロンビアの航空会社SACOのF−31機のパイロット、サンペール・メンドーサは機から降り、乗員室へ向かう途中で、ドイツの航空会社SCADTAのマニサレス機の機長ハンス・ウルリッチ・トムと出合った。既に二人はライバルとして、また思想信条の違いから、パイロット同士の理性的感情を越え、憎しみを感じ合っていた。トムはメンドーサに対して「今度お前をびっくりさせてやるぞ」と言い、事実1時間後に滑走路で待機していたメンドーサ機の僅か5メートル上空を、乱暴に飛び去った。翌日、メデジン空港で二人は再び会い、前日の振る舞いを種に喧嘩になりそうになったが、この時は周囲の人々が止めたため騒ぎにはならなかった。しかし、間違いなく悲劇は近ずいていたのである。メンドーサは報復の意志を固め、その最初のチャンスを狙っていた。悲劇がおこったのはこの3日後のことである。ドイツ人のトムは27歳の血気盛んな青年である。マニサレス機の機長になってから2年、ベルリンの上流家庭に育ち、ナチスの上級教育を受け、外国人に帝国主義を吹き込むほど、ヒトラーに心酔した典型的なナチス党員であった。

悲劇を生んだメンドーサの報復
 悲劇の当日、1935年6月24日朝、メンドーサのF−31はボゴタから来て着陸した。メンドーサはガルデル一行がいる側の燃料ボンベに近ずいて行った。そして、再び南へ飛ぶための一時着陸である彼の機は、トムのマニサレス機よりも離陸順番を早く取ろうとした。ガルデルとお喋りをしながらメンドーサは、トムを横目でにらみ、18歳の若い相棒の副操縦士、フォスターのためにビスケットを買いに行った。当時の規則では、副操縦士は乗らなくてもよいことになっていたが、たまたま、このときは乗っていたのである。ガルデル一行の搭乗が終わって、メンドーサは自分の離陸順番を待ちながら、「今日こそ奴に一泡ふかせてやろう」と考えながら滑走路を見渡し、何処にトムのマニサレス機がいるかを探した。
メンドーサのF−31機は、滑走路に入る前にエンジンが正常なことを確かめ、36番の滑走路に入り北を向いた。滑走路が空いたという信号旗の合図があった。
 一方、トムのマニサレス機もエンジンの始動を開始し、間もなくF−31機が離陸して空くはずの滑走路にゆっくりと向かった。F−31機は加速しつつ障害物のない滑走路を250メートル進んだ。速度が離陸速度に達しようとしたとき、一人の人間が滑走路に近ずいてきた。彼は離陸を止めさせようとしたのである。しかし、かなり遠く離れていたのでメンドーサには分からなかった。この時すでに異常は起こり初めていたのである。F−31機は、急に方向を変え、マニサレス機のいる同じ滑走路へ入って行った。マニサレス機は、F−31機と同じ滑走路上の約300メートル手前で止まっていた。メンドーサは、今こそトムに借りを返すチャンス到来と思い、その鼻先を飛んでやろうと、マニサレス機に狙いを定めた。エンジンを最大にふかし、120メートル手前で飛び上がった。上昇を開始し角度を上げたその瞬間、F−31機に衝撃が走った。マニサレス機の僅か50メートル手前、時間にしてほんの数秒手前であった。完全な操縦で上昇したにもかかわらず、マニサレス機の上にまともに落ちたのである。
 ほんの数秒、数メートル前までは誰も想像もしなかった悲劇であった。マニサレス機は全員死亡、F−31機の方は5人が救助された。このうちの1人、グラント・フリン氏はSACOの運行責任者で、衝突の衝撃で数メートルも投げ出されたが奇跡的に軽症ですんだ。彼は数々の事態から、この事故を予想していたと言われている。

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