この悲劇の事故から得たもの この事故の灰の中から、コロンビアは貴重な成果を得た。事故の後、SACOは2年の雌伏を経て、再び外国航空会社との競争を開始した。しかし、1938年、コロンビア政府は外国航空会社を規制する法律を公布した。それは、外国企業はサービス提供にあたり、最初の5年間は25%、次の5年間は50%、その後は75%のコロンビア人を就業させなければならないというものであった。外国航空会社と戦った英雄と言われた、故メンドーサ操縦士の夢であった理想が実現したのである。さらに、その後、SACOとドイツのSCADTAが合併され、今日のコロンビア航空「AVIANCA=アビアンカ」が誕生した。 コロンビアは、航空事業に対するナチス帝国主義の侵略から、自由を獲得したのである。ガルデルは死んだが、その大衆のアイドルとしての人気は、ラテン・アメリカにおける国際航空規則の制定の引き金となり、南アメリカ大陸の国々の航空事業における自主性回復のための大衆運動に勇気を与え、すばらしい飛躍をもたらした。ガルデルの死は決して無駄ではなかったのである。 メデジンの事故に関する報告や疑惑に包まれたエピソードなどが、40年以上もの間日の目をみなかったのは、関係者達によって秘密に扱われてきたからである。理由は、これが広まると、コロンビアとドイツの航空会社同士の確執や、パイロット間の意地の張り合いに、アルゼンチン国民のアイドルが巻き添えを食ったとなって、ラテン・アメリカ人の血で結ばれた兄弟国間に問題が起きるlことが恐れられたからである。 この事故について、どの程度ブエノス・アイレスに報道されたのかを知る手がかりがないので、当時のアルゼンチン国民の反応が分からないのが残念である。ただ、1990年12月9日のブエノス・アイレスの日刊紙クラリンに載った、ガルデル生誕100周年の追悼記事の中に、『当時の新聞は、「ニュースを聞いた世界は震撼し、ブエノス・アイレスは信じることができなかった。やがて、彼の死の衝撃は、母国の国民や全ての彼のフアンの心に刻み込まれた、深い傷跡に変わっていった」と報じている』との記事があることや、ブエノス・アイレスの当時の玄関口”ボカの港”に着いた棺が、8頭の黒い馬に曳かれ、チャカリータ墓地まで行く沿道には、3万人の人々が集まり、その列は1キロにも及び、通り過ぎるのに3時間もかかったと言う記録などから、当時の悲しみの一端を偲ぶのみである。 映画のフィナーレのように 事故の翌日の二つの新聞に、遺体の検死結果が出ていた。エル・エラルド紙によると、『ガルデルは、焼け残った唯一の衣類である、羽毛の入った太目のチョッキを着ており、口を下にし、エンジンを踏んだような格好であった。手首に金の鎖のブレスレットを嵌め、首には複数の鍵と、”カルロス・ガルデル、ジョン・ジョエーレ街735番地、ブエノス・アイレス”と書かれた金属板を下げた鎖を掛けていた。そして、、遺体の側には、燃え残った楽譜の切れ端が落ち、フアンに最後の別れを告げるかのように、赤い絹糸で”C”、”G”とイニシャルを刺繍した、白いハンカチが添えられていた』 と報じられている。それは、まさに、名画のフィナーレの場面にふさわしい光景であったに違いない。 事故を目撃した、メデジン空港地上整備員、テレンシオ・スパイニは、いまでも大事にしまっているものが二つある。それは、擦れたり痛んだりしないように、透明なプラスチックの袋に入れた紙片である。一つは、ムンソン・スチーム・シップ・ラインという南米航路の船から、米国に入国する際の入国税領収書の切れ端であり、もう一つは、ガルデル達をパナマ外務大臣に紹介するための紹介状である。これは殆ど原型の大きさのままである。二つとも、火と熱の跡を残していた。ガルデルの身体は黒焦げになっていたのに、この紙切れだけは、彼が着ていた羽毛のチョッキのお陰で焼け残ったのである。 結局、5人も生存者がいながら、本当の原因は解明されなかった。いや、あるいは政治的思惑から、解明しようとしなかったのかもしれない。今日のようにフライト・レコーダーでもあれば、もっとはっきりしたかもしれないが。ガルデルの親友の新聞記者、エドムンド・ギボルグの言葉をもって、謎解きの締めくくりとしよう。 『神話というものは、元来ミステリーに満ち、冷酷で物議をかもす元になる曖昧なタネを必要とするものである。神話を創るためには、疑う余地のない証拠や現実を求めるよりは、この方が価値がある。神話というものは、純化した荘厳なものである。しかし、ガルデルの人生は、生まれながらに神話的なものを持っていた。不確かな部分を秘めたまま、彼の神話と様々な伝説が創り上げられたのである』。 |
メデジンの悲劇の謎はガルデル神話のベールをさらに厚くした一幕であったのかも知れない。 |
完 |
迷宮の奥は闇に包まれたまま真相は永遠に消え去った。トップへ戻ります ラテン・アメリカと私 扉へもどります |