【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み= No.1

第1部 ≪20世紀末のアルゼンチンの車事情≫

1.運転免許も金次第
 
緯度も経度もほとんど正反対な関係にある日本とアルゼンチンは四季も全く逆である。日本の春分の日は、アルゼンチンでは秋分の日であり、歩道のプラタナスの葉が少しづつ黄色くなり始める。「ラ・プラタ」の大河から発生した80%以上の湿度と日本並みの暑さにうんざりした夏も、この頃にはやっとしのぎ易くなってくる。そして、カトリック教徒の多い国ならどこも祝う、「セマーナ・サンタ(聖週間:4月前半、年によって期間が違う)」の頃には、南極からの寒気団が突如現われて、急に冷え込む日もやってくる。こうなると、もう気の早い女性は毛皮のコートを着込むようになる。
  このような、まだ冬には早い晩秋のある朝、私はアルゼンチン・タンゴの名曲「スール(南)」の歌詞の冒頭に出てくる「サン・ファン大通り」と「ボエド通り」の角で、背中を丸めて立っていた。自動車の国際免許の期限があと1週間で切れるので、アルゼンチンの免許を取るための試験を受けに行く日であった。
  そこで、昼は政府高官の要職にあり、夜は第一線で活躍するかなり名前の売れたタンゴ歌手である、友人のR氏に伴われて、試験場に行く約束をした日が今日である。これより以前、私の駐在の仕事上最も関係の深い役所の幹部を通して警察本部に対し、無試験で運転免許の切り替えができないかと打診した。ところが、永住ビサ(1年以上の滞在は永住ビサが必要だった)で入国した者は、例え形式的であっても一度は試験を受けなくてはならないということで、仕方なく受験せざるをえなくなったのである。当たり前といえば当たり前のことではある。その代わり、本当に形式的なものにしてもらうため、わざわざ政府高官にご同伴を願ったというわけだ。
  筆記試験は現地人と同じ基準で受けるが原則であるが、スペイン語で書かれた問題を丹念に読んでいようものなら時間オーバーになってしまう。辞書の持ち込みはOKなのだが、スペイン語圏以外の外国人には大変難しい。実際に5回も受けて合格できなかった日本人もいる。その代わり一度合格すれば年齢によっては、当時は最長10年間有効というのもあり、50歳以上は5年、60歳以上は1年とか、また眼鏡を使用する人は3年とか、各人の肉体的条件に合わせて有効期間が合理的に決められていたものである≪2003年11月から有効期間が変わった。17歳〜20歳は1年、21〜45は5年、46〜60は4年、61〜70は3年、71以上は1年≫。実地試験も実際はかなり厳しく、バックで50メートルものジグザグ・コースを走る科目もある。しかそうは言っても、国際免許が加盟国に共通である以上は、国によって試験の難易度に大きな差があるものではないと思う。 形式的という約束通り筆記試験は二つ三つの道路標識の意味を尋ねられただけで、その後コースをたった1周しただけで、太っちょの検査官は「ムイ・ビエン(大変よくできました)」と言ってくれ見事合格した。私は運転席のシートの上に小さく折った10ドル紙幣をそっと置いてきた。
≪現在は実地試験と学科試験の申し込みの際に眼底検査と心理学テストを受け、これに合格しておく事が義務となっている。さらに試験に合格した後、交通モラルに関する1時間のビデオによる講習会に出席しなければ免許証を受け取ることができない≫。
  10日ほどして、警察本部の女性秘書と名乗る美女がわざわざ私の事務所まで免許証を届けてくれた。免許証はなかなか立派なもので、関心のあった有効期限は5年となっていた。わざわざ警察から届けてくれるなどということは、日本では考えられないことだが、魚心あれば水心で、ささやかなお礼として日本のキーホルダーなどを贈ると、彼女は、「なにかあったらいつでも私に言ってくれ」と言いながら、お尻を振り振り帰って行った。
  特別なことをしてもらったら、それに報いることは当然であるが、それができない人の場合は相対的に不利な扱いを受けることになるが、それでも不平や混乱がない。日常生活の中では、他人のことは考えずに自分ができる範囲で自分の利益のためだけを考えるという、利己主義が成熟した社会にはそれなりの秩序があるようで、アルゼンチンで生活する間には、空港の荷物検査や国際郵便局での荷物引き取り、劇場や催し物会場の入場券購入などのときに、然るべき心付けのお陰で、ちょっぴり優越感を味合わせてもらったものである。
  かくして、堂々とアルゼンチンの運転免許証を手に入れた私は、日本では思いもつかなかった、左ハンドルのフォード・ファルコンと言う大きな車(4800CC、1リットルのガソリンで4キロしか走れない)を、右側通行に戸惑いながらも走らせるようになった。
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