【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み= No.2

第1部 ≪20世紀末のアルゼンチンの車事情≫

2.車を持つということ
  当時のアルゼンチンには車検制度がなかった≪現在はちゃんとあるが≫。車はエンジンが動く限り、車輪が回る限り走らせることができた。日本の消費文明を代表するかのように、まだまだ十分乗れるような車なのに廃車置場に山積みされているようなものでも、ラテン・アメリカの底辺に生きる多くの人々から見ると高値の花である。庶民の車への願望は強く、住宅地の路上には屋根の上に”売り物”の印である空き瓶や空き缶を立てたおんぼろ車が沢山放置されていたが、これがいつのまにか売れてしまう。売る方も売る方なら買う方も買う方だと、つくづく感心させられたものである。
 ≪現在は連邦首都圏を除く地方では車検制度がある。有効期間は3年。1989年から97年までのメネム大統領の時代にこの制度ができた。車検証明は自動車部品修理工場(タジェール・デ・アウトモトール)で取得できる。事故を起こした時車検証明がないと高額の罰金をとられる。かっては、珍しくもなかった年代ものの車で、物凄い音をだしたり、黒煙を排出するような車は、今では走行が禁じられ、廃車にしなければならなくなった。路上に放置された車は、市役所の車がやって来て、廃車置場に運んでいってしまう。≫
  アルゼンチン人には器用な人間が多く、具合の悪いところなどは自分でなおして、どうにか走れるように仕上げてしまう。しかし、タイヤを始め必要な部品の供給手段が問題で、同形式の車から無断拝借する手合いが多く、その方の話題にも事欠かなかった。私が駐在していた頃のアルゼンチン人の運転は、一見乱暴のように見えるが意外と慎重なところもあり、交通事故が多いとは思えなかった。勿論、これには市街地の道路が碁盤目で、殆ど「ウナ・ビーア(一方通行)」であるため、正面衝突が起きにくいとか、また路面のあちこちに市電の古いレールがまだ残っていたり、道路の表面が昔の石煉瓦のままであったりなどで、スピードが出しにくいなどの環境的な原因によることもあると思う。しかし、何と言っても日本のJAFに相当する「アルゼンチン自動車クラブ (ACA)]の創立が1904年(明治37年)ということが物語るように、自動車との付き合いが長く、生活の道具として定着している事が大きな原因ではなかっただろうか。≪しかし、1990年代以降は車が増えてきたこともあり、事故も多発するようになってきた。歩行者の死亡事故もブエノス・アイレス市内だけで年間1万人以上にもなっていると言われている≫
  スピードを味わったり、走ることに楽しみを感じるのではなく、物を運んだリ目的地へ行くまでの道具として考えているので、一般に自分の技量や車の性能以上のことは望まないし、ましてや豪華な仕様や直接走行に関係のない機能やアクセサリーなどは無用と思っている。こうした考えから、かってはクーラーは殆どついていなかった。高いばかりでなく、自分で修理できないからである。その他、ステレオラジオや時計などもみなオプションで、日本のように新車からいろんなものを付けると、とんでもない高額になる。≪現在はクーラー付きも大分増えたがかなり高い。また、ステレオも多くの車に普及したが、盗難予防のため表面のパネルの部分が取り外しができるようになっており、駐車する時には外して持っていくのが習慣になっている。≫ 
  道路やスーパーの駐車場で後押ししてくれと頼まれる事がよくあった。始めはなぜ我々のような外人に頼むのか奇異に感じたが、私の車は車体が大きい上にバンパーが二重バンパーなので、押してもらうにはうってつけな車であることが理由だと分かった。話は飛ぶが、東京の街角で外国人に道を尋ねる日本人は先ずいないはずだが、アルゼンチンのような何十もの国の移住者で構成されている多民族国家の人達は、肌の色や体つきなどには一向にお構いなく、平気で ”ブエナス・タルデス・セニョール” と近づいてきては、このようにものをたのんだlり、時間や道を聞くのである。広いパンパ(大草原)や深夜の街角ではあるまいし、何を好んでわざわざ外国人に近寄ってくるのかが分からなくて気持ちが悪いと思っていたが、そのうちにこの謎が解けた。それは、『日本人は正直だから尋ねたことに正確に答えてくれるし、分からない事には分からないと言ってくれるので、一度だけ聞けばよい。しかし、アルゼンチン人は一見親切そうだが、知らない事でも知らないと言わず、インチキを教えるので一人だけに聞いても信用できない。3人くらいに聞いて、多数決の答えに従はなくてはならない。』からだそうである。 ≪写真は、アルゼンチン自動車クラブ(ACA)本部の建物≫ 
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