【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み=】 No.3 第1部 ≪20世紀末のアルゼンチンの車事情≫ 3.アルゼンチンを走る車 ブエノス・アイレスの街を走っている車はカラフルである。カルフルと言う点では何も車だけではなく、建物にしてもそうである。タンゴの発祥地ラ・ボカ地区の原色のペンキを塗りたくったサイケな家並みを筆頭として、大統領府が「カサ・ロサーダ(英語で言えばピンク・ハウス)」と言われるように、薄い赤茶色の建物であるのを始め、高級住宅でさえ白以外の色のものが多い。この国の人達は色に対する感受性が強く、服装などについても真っ白とか真っ黒と言った色は好まない。80年代、90年代の日本車の80%近くが白とか銀、灰色の白系統の没個性だったのに比べ、車体の色は実に多彩である。 1977年〜1978年代、ビデラ将軍の軍事政権が左翼テロ組織を弾圧していた頃、怪しいと思われる人々を強制的に連行していった軍隊や警察の車が、「白いフォード・ファルコン」であったため、一般市民に白い車は悪い・怖いと言うイメージが焼きついた。これが白い車が少ないことの一つの理由だとも思える。 白系が少ないのは、これはアルゼンチンだけでなく、ウルグアイ、チリ、パラグアイ、ペルー、ボリビアなど何処もそうであって、一つの色が圧倒的に多い現象の方が珍しいと思う。それに日本の車は外観の点において、夫々のメーカーの特長が余りない。例えば、フォルクスワーゲンにしても、BMWにしても、ベンツやアウディにしても、また、レナウ(ルノー)とかペウジョ(プジョー)、フィアット(ファイアット)にしても、前から見ればバリエーションに関係なく統一されたデザインの顔を持っている。然るに日本の車は一見しただけでは何処のメーカか分からないことが多い。あれだけ世界中を走りまわっているんだから、メーカーは自社製の車の顔は全部同じにできないものだろうかとつくづく思ったものである。現に外国を走る日本製のトラックには荷台の後の枠板に"DATSUN" とか"TOTOTA"の名前が大きく浮き出しで書いてある。異国の田舎で牛を積んで走る日本製のトラックに出会ったときなど、えも言えぬ近親間を覚え、運転しているお爺さんに思わず手を振ったりもした。 かって、経済不況の頃(失われた80年代と言われた時代)にアルゼンチンで日本車を買う場合、一番注意しなくてはならなかったのは、その車の部品の在庫があるか、修理できる工場が近くにあるかどうかという点であった。日本車が優秀なことは世界的に定評があったので、アルゼンチンでも人気が高かった。しかし、これらの車が日本からアルゼンチンに着くまでには、船上で2ヶ月近くも潮風にさらされ、さらに陸揚げされてから輸入業者に引き取られるまでに、場合によっては何十日も青天井の下に置かれていた。こうなると、いかに厳格な品質管理の下で入念に仕上げられた車でもかなり弱っているのは仕方がない。こうゆう状況下では、その国で一番普及している車に乗るのが安心である。≪しかし、メネム政権時代(1989〜1999)以降は外国車がどんどん輸入され、今では欧米日本の有名メーカーの車はどれも在庫豊富で、かっての日本車が珍しい時代が嘘のようである。しかし輸入車の値段は日本で買う場合よりも50%ほど高くつく。1990年代にはトヨタが郊外に工場を設置して生産を開始した。年間の自動車販売台数は約40万台と言われているが、国産車と輸入車の割合はほぼ半々である。日本より10倍近くも交通事故が発生するアルゼンチンのことであり、自賠責保険は強制的に加入させられるが、年間支払い額は600〜700ドルもする≫。 長距離ドライブに出掛けたときなど、100キロ以上のスピードで3時間も4時間ものあいだ、ただただ草原だけという大パンパの真っ只中を1台だけで走っていると、地の果てにいるような孤独感に襲われ、もしこんな所で故障したり、ガス欠にでもなったらどうしようという深刻な不安感にかられる。 携帯電話やGPSシステムが普及してきた今では、馬鹿みたいな話になってしまったが≫、20年位前までは、パラグアイのチャコ地方(ボリビアに接する地方)などへは決して1台で行ってはいけないと言われた(ただし、パラグアイの携帯電話ネットワークがチャコまでカバーしているかは分からない)。途中で動けなくなっても、通りかかる車が何日も来ないことがあり、餓死する心配があったからだ。そこで、日本の車の付属工具がジャッキーとタイヤを外すスパナーだけなのに比べ、特に長距離のドライブには、後で述べるような七つ道具が必要であった。車には故障がつきものと言う考えが常識で、生活に必要な物を運び人を乗せるのが目的のアルゼンチンの車社会と、レジャーやスポーツ目的が多い日本の車社会との文化やルールの違いを改めて感じないわけにはいかなかった。 |
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