【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み= No.4

第2部 ≪バスは道路の王様≫

1.都大路のバスレース
  
1928年(昭和3年)9月24日の朝、ポルテーニョ(ブエノス・アイレス生まれの人)達は、初めて市内をバスが走り始めるのを見た。それまで市内の交通機関はトロリーバスが主体であった。 バスのことをアルゼンチンでは、「コレクティーボ」と称し、幾つかの会社が経営している。公営バスはない。それぞれのバスは決まった運転手が乗るので、ほぼ私物化されており、運転席には家族や恋人の写真とか、キリストやマリアのカードとか、好きなサッカーチームのペナントなどが飾れている。ラジオもじゃんじゃんかけたりするし、停留所に美人のセニョリータが待っているのを見るや、やおら櫛をとりだし髪に手を入れるなど、運転は神業に近いプロ中のプロが運転するワンマン・バスである。ブエノスアイレスの主要駅、地下鉄駅、広場、公園などを起点として発着する路線は市内だけで約150もあり、路線ごとに番号が決められていて、その番号固有の色彩に塗られているので、遠くからでも色ですぐ判別できる。
今は皆普通の大型バスに変わっているが、かっては、ボンネットの両側に丸い大きな怪獣の目玉のようなヘッドライトがあり、銀色に光る歯をむき出したような幅広のバンパーと、角のように突き出たサイドコントロール・ポールなどを見ると、まさに怪獣の怒った顔そっくりで、巨体を震わしながら市中でも70〜80キロものスピードでスタントカーレースの如く、2列、3列になって疾走する姿は圧巻であり、まさしく道路も王様の名に恥じなかった。≪料金は乗る時に料金箱へ入れる。前乗り、中下車方式。現在は最低が70センターボ(約210円)であるが、市内の大抵の場所は8センターボで行ける。市内から50キロくらいの所までは約3ペソである最近は身体障害者用のバスが増えてきた≫。コレクティーボは一般大衆の足ということでかなり安く押さえられているので、乗客の数で稼がなくてはならないためスピード競争が生まれ、都大路を我物顔に走りまくるのである。
  ブエノス・アイレス市は東北部と東部を「ラ・プラタ川」に接し、北西部から西部および西南部へは「ヘネラル・パス」と言う高速道路が走り、南部は「リアチュエロ川」で区切られた東西、南北それぞれ約20キロの六角形に似た街である。ラ・プラタ川を江戸川、ヘネラル・パスを環状7号線、リチュエロ川を多摩川に見立てた地形は東京の23区によく似ている。ラ・プラタ川に接した市の東端「ミクロセントロ」と呼ばれる政治・経済・文化の中心地の道路は碁盤目をしており、ここから市街地は扇形に北、西、南部の3方向に広がり(東はラ・プラタ川)、それぞれの地域で又新たに碁盤目を構成している。多くの道は一方通行になっていて、平行する道が互いに反対方向行きなので、東京のジャングルのような道に比べ憶え易いし走り易い。これらの道路には、広いところでは「ヌエベ・デ・フーリオ(7月9日)通り」のように幅が144メートルもあって、世界一の広さを誇っている通りから、4メートル位の細い道まである。コレクティーボの路線は殆どの通りをカバーするようになっている上、24時間運転なので乗り慣れると誠に都合の良い交通機関である。
失われた80年代に厳しい経済状態が続いたときには、しばしば労働組合のストライキがあり、市営の地下鉄や国鉄が止まったときでも、コレクティーボは私企業の経営だったので、ストライキに参加しない車が多く、大衆の足としての真価を如何なく発揮してくれたものである。
 ≪写真上:1928年9月に初めて走り始めた頃のコレクティーボ。 写真下:かって都大路に君臨した怪獣の顔を思わせるフロントをしたコレクティーボ≫
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